1968年メキシコ市五輪でアジア勢初の表彰台となる銅メダル獲得に貢献したサッカー日本代表のエースで、同大会で得点王にも輝いたFW釜本邦茂さん(日本サッカー協会元副会長)が10日午前4時4分、肺炎のため大阪府内の病院で死去した。81歳だった。

かねて病気療養中だった。国際Aマッチ75ゴールは日本史上歴代最多。現役時代は日本サッカーリーグ(JSL)のヤンマーでプレーし、引退後はG大阪などで監督を務めた。

 釜本さんの訃報に接し、東京Vの城福浩監督が11日、天皇杯ラウンド16の名古屋戦(13日・味スタ)に向けた全体練習後に取材に応じ、故人をしのんだ。指揮官にとっては早大の大先輩にあたるが「恐れ多いですし、雲の上の人というのはああいうことを言うんだなと。それくらいの存在です」と振り返り、「自分が物心ついた時にサッカーを大好きになって、家から学校まで一つの石をずっと蹴っていた時代の僕のヒーロー。サッカー界はそれ以降、“釜本2世”が何人出てきて、“釜本2世”という言葉の呪縛にどれだけ苦しめられたか。それくらい存在として大きな方だったなと思います」と話した。

 現役時代には、ヤンマーで釜本さんとチームメイトだった選手から話しを聞き、そのすごさをより感じたという。

 「シュートはここに置けばいいんだとか、大きいボールを胸でトラップする時の相手のブロックの仕方はこうすればいいんだとか…あの人なりの教えがあって、それがものすごく参考になったと。じゃあ、ガマさんが誰かに教わったかというと自分で考えたと思う。やっぱり教わるだけではなく、自分で考えられる選手、ストロングを出すために、ボールをここに置いたら絶対に取られないから、こういう所にこういうボールをよこせとか、そういう選手を本当に我々がどう輩出するか。

元ヤンマーの選手が指導者になっていますけど、彼らの話を聞いて、僕も当時参考になった。それくらい偉大な歴史上のレジェンドですよね」

 指導者目線で見れば「破天荒というか、おそらく指導者として接したら相当難しい選手だったと思うんですよ」と言う。それでも、それだけの傑出した才能ある選手をどう輩出していくは、今後への宿題でもある。

 「ガマさんの(代名詞でもある右)45度(からのシュート)というのは、本当に有名で。伝え聞いた話でしかないですけど、必ず45度からのシュートを打って上がるらしいんですよ。そのこだわりや、ストロングを研ぎ澄ましていく、そのプロフェッショナルな意識であったり、物怖じしないメンタルだとか、当時の指導者養成がどれだけ充実していたかは分からないですけど、当時の中でああいう選手が出てきて、今まさに“釜本2世”が出てきたかというと、我々は指導者としては色々な示唆に富むというか、色々なものを勉強した上で、ああいう規格外の選手をどう輩出していくかと。縮こまらせないで、丸い円にさせず、もっととがった釜本邦茂のような選手をどう出していくかというのは改めて考えさせられますね」

 日本サッカー界を代表する唯一無二のストライカー。時代が移り変わっても、その歴史は永遠に語り継がれていく。

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