日本サッカー不世出のストライカーで、1968年メキシコ市五輪で得点王となって銅メダルの原動力となり、10日に81歳で死去した釜本邦茂さんの葬儀が13日、大阪府吹田市で営まれた。友人ら約170人が弔問し、別れを惜しんだ。

日本協会前会長の田嶋幸三氏(67)、同五輪で同僚だった横山謙三氏(82)、親交の深い俳優・松平健(71)が弔辞を務め、生前から自分を超えるFWの出現を願っていたことなどが明かされた。戒名は「本徳院英輝勝翼邦教居士」。後日、お別れの会が開催される予定。

 Jリーグアンセムが流れる斎場で、日本代表歴代最多の75得点を挙げた偉大なストライカーは、多くの友人や仲間たちと別れの時を迎えた。ひつぎには釜本さんが好きだったお酒やG大阪のユニホーム、天国でもトレーニングができるようにランニングシューズなどが入れられた。最後はFIFAアンセムが響く中、多くの教え子たちに支えられて出棺の時を迎えた。

 弔辞を述べた田嶋氏はともに過ごした日々を回想。「『釜本2世』と呼ばれたやつは何人もいるが、追いついたやつはいない。私たちはその名と功績を胸に刻み、サッカーの発展に尽くしてまいります」と声を詰まらせた。さらに「50年遅くガマさん(釜本さん)が生まれていたら、来年の(北中米)W杯ですばらしい活躍があるのではないか。そんなことを言ったら、なんでろくでもないことを考えているんだ、と一刀両断されるでしょうね」と偉大な先輩を惜しんだ。

 メキシコ市五輪をともに戦った横山氏は、晩年も続いた交流を振り返り、釜本さんの願いを代弁した。

「いつも『大事なことは俺を超えてくるやつが出てくることだ』と言っていた。『オレを超えるやつが出てこねえぞ』と。(生前)そんな話をしていました。釜本みたいな選手がいたら、世界を取れるのかもしれない。それぐらいの時代まで、日本は来ている」と期待した。

 田嶋氏は「あれほどサッカーを愛し、日本代表を愛した方はいらっしゃらないかもしれない。その気持ちを我々が引き継ぎ、来年のW杯で優勝を目指していく」と話した。自身を超えるストライカーの出現と、日本代表の躍進を願っていた釜本さん。悲しみに包まれた別れの時を経て、その思いはさらなる日本サッカーの発展につながっていくはずだ。(金川 誉)

◆30年来の友人 マツケン弔辞

 釜本さんと30年来の友人だったという俳優の松平健(71)は、声を詰まらせながら“約束”を果たした。釜本さんは生前「(自分が亡くなったら)松平健に弔辞を読んでもらうよ」と取材の際に答えていたという。「冗談交じりに(釜本さんは)おっしゃっていましたが、それが現実のものとなってしまいました」と別れを惜しんだ。

 大阪で仕事がある際は、釜本家に招かれ、食事をする機会も多かったと明かした。釜本さんは松平が主演を務めた人気ドラマ「暴れん坊将軍」のテーマ曲を携帯電話の着信音にしていた時期もあったという。「釜本さんと親しくさせていただいたことは、今でも私の誇りとなっております。どうぞ安らかにお眠りください」と涙を浮かべて天を見上げた。

◆石破首相らからも弔電 〇…釜本さんの葬儀には、サッカー界をはじめとして各界から弔電や供花が届いた。日本サッカー協会の名誉総裁を務める高円宮妃殿下からは「サッカー界への貢献は、歴史的に考えて、他に類を見ないものだと思います」とメッセージも贈られた。弔電は石破茂首相ら、供花は元日本代表監督の岡田武史氏やJFLアトレチコ鈴鹿のFW三浦知良ら多数に及んだ。

 ◆釜本 邦茂(かまもと・くにしげ)1944年4月15日、京都市生まれ。山城高、早大を経て67年にヤンマー入り。78年から監督を兼任し84年に引退。19歳で日本代表入りし、国際Aマッチで通算76試合75得点。68年メキシコ市五輪では7ゴールで得点王に輝き、初の銅メダル獲得に貢献。

日本リーグ通算251試合202得点、得点王7回。91~94年に松下電器(93年からG大阪)監督。95~2001年は参院議員を務めた。日本サッカー協会では副会長、強化推進本部長、常務理事を歴任。現役時代は179センチ、79キロ。

 ◆主な参列者  礒貝洋光(元日本代表MF)、上野山信行(元G大阪取締役)、杉山隆一(元日本代表FW)、田嶋幸三(前日本サッカー協会会長)、永島昭浩(大阪府サッカー協会会長)、松平健(俳優)、松波正信(長崎アカデミーダイレクター)、松本育夫(元日本代表FW)、横山謙三(元日本代表監督)=50音順、敬称略=

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