巨人に立ちはだかった名選手の連続インタビュー「巨人が恐れた男たち」。第11回は元西武の石毛宏典さん(69)だ。

走攻守、さらに天性のリーダーシップを兼ね備えた名手は、1980~90年代に黄金期にあった西武をけん引。日本シリーズでも巨人と4度の激闘を繰り広げた。巨人に対し4連勝と圧倒して球界に衝撃を与えた90年のシリーズから、師匠と慕う広岡達朗元監督との出会いまで、「喜怒哀楽」の記憶をたどった。(取材・構成=太田 倫)

 西武時代の14年間でリーグ優勝を11回経験した。公式戦の130試合ではなく、日本シリーズまでの137試合が年間行事という感覚だった。

 日本一になって、銀座で打ち上げをする。お店にバスを横付けして乗り込んで、みんな子供のように無邪気に大騒ぎする。プロ野球の日本一はすごいなと思ったものだ。レギュラーも、ファンの人たちも、裏方もみんなで喜んでくれる。じゃあ、来年はもっと強いチームにしようと思うと、自然と普段お酒を飲むときでもブレーキがかかった。使命感というかな。

 8回日本一になって、巨人とは83、87、90、94年と4度日本シリーズで対戦して3度破った。

強烈な思い出は、4タテを食らわせた90年かな。第1戦の初回に、いきなりデストラーデが、槙原寛己からカウント3ボールから3ランを放って、流れをつかんだ。西武は初代監督の根本陸夫さん【注1】が人材を集めて、2代目の広岡達朗監督がスキルアップさせて、育った人間を3代目の森祇晶さんがマネジメントした。投打のバランス、年齢のバランス、打順のバランス…。あれが西武のピークだったと思う。

 岡崎郁が「野球観が変わった」って言っていたようだけど、巨人の選手がどういう野球観を持っていたかはオレには分からない。ただ、ウチは1点を取り、1点をやらない、広岡監督の時代から磨き込まれてきたソツのない野球をやろう、というところだった。

 西武には日本シリーズでも何でも、負かした相手のいいところも認めて吸収して、まねる貪欲さがあった。例えば86年にシリーズで対戦した広島からは、全力疾走で一つの球に食らいつく姿勢を学んだ。そうやって築き上げて最高に仕上がったのが、あのチームだった。

 87年もいろんなことがあったシリーズだった。優勝を決めた第6戦では、辻発彦が中堅のクロマティの緩慢な守備の隙を突いて、単打で一塁から一気にホームインするプレーもあった【注2】。

あれは三塁コーチャーの伊原春樹さんが相手を研究して、準備万全で臨んでいた。選手はコーチ次第で、「いけ」と言われたらいくしかない。伊原さんの大ファインプレー。「野球観が変わる」というなら、あのプレーだよね。

 【注1】78年にクラウンライターの監督に就任し、79年に親会社が西武に代わってもそのまま指揮を執った。81年限りで退任し、フロントとして編成面で辣腕(らつわん)を振るった。

 【注2】2―1とリードして迎えた西武の8回の攻撃。2死一塁から秋山幸二の左中間への安打で辻が生還。伊原コーチはクロマティが山なりで返球する癖を頭に入れた上で、中継に入った遊撃の川相昌弘が一塁方向に振り向いた瞬間を狙って腕を回した。そのインパクトから「伝説の走塁」と呼ばれる。

 ◆1990年の日本シリーズ セ・リーグを独走で制した巨人有利とみられていたが、フタを開けてみれば西武が圧倒した。初戦はデストラーデの3ランと渡辺久信の完封で5―0。

2戦目は斎藤雅樹を崩して9―5で制し、第3戦では渡辺智男がシリーズ初登板初完封で7―0。第4戦は0―2の5回に大量6点を奪って7―3で逆転勝ち。シリーズ4戦4勝は当時30年ぶり3度目の快挙だった。MVPにはデストラーデが選ばれた。

 【第1戦(東京D)の西武スタメン】

1(二)辻発彦

2(右)平野謙

3(遊)石毛宏典

4(三)清原和博

5(一)デストラーデ

6(中)秋山幸二

7(左)吉竹春樹

8(捕)伊東勤

9(投)渡辺久信

 ◆石毛 宏典(いしげ・ひろみち)1956年9月22日、千葉県生まれ。69歳。市銚子―駒大―プリンスホテルを経て80年ドラフト1位で西武に入団。1年目から遊撃手の定位置を獲得して新人王を受賞。86年には3割2分9厘、27本塁打でMVPを受賞した。ベストナイン8回。94年にFA権を行使してダイエーに移籍した。96年に引退後は、ダイエーの2軍監督、オリックスの監督を務めた。

独立リーグ・四国ILなどの創設にも尽力。現役時は180センチ、75キロ。右投右打。

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