故エリザベス女王の棺の一般公開がロンドンのウェストミンスター・ホールにて、現地時間9月14日から19日まで5日間わたって行われた。デヴィッド・ベッカム(47)も一般の弔問客の列に並び13時間を待って女王の棺と対面を果たしたことは大きな話題となった。
それほど英国民にとってエリザベス女王とは畏敬の念を抱く対象である一方で、何より自らの母のような近しい存在でもあったのだ。そんななか、同じく13時間という長時間を待って、女王の棺と対面した1人の日本人女性がいた。およそ75万人という様々な人種の人々が訪れた棺の一般公開であるが、実は日本人弔問客の姿をその列に見つけることは容易ではなかった。在英24年というこの日本人女性はどのような思いを胸に13時間を過ごし、女王の棺の前では何を思ったのか。異国の女王の最後の別れの場に赴いた日本人の思いと体験談を聞いた。

今回話を聞いた吉原貴子(よしはらたかこ)さんは、10代の頃に見た故ダイアナ妃のウェディングドレス姿に感激したことがきっかけで、英国に憧れを持ったと語る。
その後1998年に渡英、永住権を取得し、現在はロンドンの日系企業に勤務している。

吉原さんは16日の午後6時過ぎから、仕事帰りにエリザベス女王の棺の一般公開の列に並んだ。

■厳しい警備体制で守られた女王の棺

-13時間並んだとのことですが、列はどのように進んでいったのでしょうか? また警備体制はどのように敷かれていましたか。

吉原さん:列は昼夜問わず常に動いていました。とは言え牛歩みたいなものです(※棺の一般公開は24時間体制で行われていた)。(女王の棺が安置されている)ウェストミンスター・ホールに入る前にはバッグに入っている飲み物や日焼け止めなど捨てなくてはいけませんでした。
透明のボトルに入った水も持ち込むことはできなかったので、空港の倍ぐらい警備は厳しかったという印象です。大きな荷物を持っていた人は皆、荷物ごと、ビッグベンの反対側の道路脇に置いていきました。そこからさらに女王の棺に辿り着くまで3時間以上並びましたね。


-途中、トイレや給水所はありましたか。

吉原さん:はい。簡易トイレが設置されていました。
それと、通りにあるフィッシュ&チップス店やカフェが「使っていいよ」と、並んでいる人たちにトイレを開放してくれていました。

■在英24年で初めて見たイギリスの人々の姿

-列に並んでいる人々はどのように長い時間を過ごしていたのでしょうか?

吉原さん:長時間並んでいるうちに皆周囲の人達と仲良くなってくるのです。私も「日本人なの?」と聞かれたり「日本にハネムーンに行ったんだよ」と話しかけてくれる人もいて、いつの間にかグループができるんですよ。だからちょっと列を抜けても「タカコはどこ?」という感じで待っててくれるんです。一番驚いたのが、列がオーガナイズされていたことです。人々はとても規則正しく列に並んでいました。



誰も前の人を抜かそうとか、列をかき分けて前に進もうとはしませんでした。トイレなどで一度列を抜けても、元いた順番の場所にしっかりと戻ってくる。そんなイギリス人の姿は初めて見ました。誰も文句ひとつ言わず、寒そうな人がいればセーターを貸してくれたり、お腹が空いたといえばクッキーを分けてくれたり、自分の持っているものを分け合いながら、助け合いながら13時間を過ごしていました。


■人種、年齢を超えた列に並んだ人々の女王への思い

-吉原さんの周辺に並んでいた人々の年齢層や人種などについて教えてください。

吉原さん:皆さんバラバラでした。
20代の女性とそのお父さんや、会社の上司とスタッフ、シティ(ロンドンの金融街)で働いているという男性や、「明日朝9時からプレゼンなんだ。それまでに間に合うかなあ。」なんて言いながら並んでいる人もいました。そういう人たちはきっとその日の仕事を終えてから急いで列に並んだのかもしれません。そのほかにも子供からインド系、中国系など、本当に人種も年齢も様々な人がいました。ただ、日本人に会うことはほとんどありませんでしたね。一度は「これ以上列に並ばないようにしてください」という報道もあったのですが、実際に現地に行ってみると「どんどんこちらに並んでください」と歓迎されました。
列は一直線ではなく蛇行するようにしっかりと整理されていました。ちなみに私はこの時初めて知ったのですが、このような列のことを「snake lane(スネークレーン)」と呼ぶそうです。


これも一緒に並ぶうちにできた「仲間」が教えてくれました。その他にもウェストミンスターへの列を並びながら様々な歴史のことも教えてもらいました。人種や年齢は様々でも「最後に一目女王に会いたい」「感謝を伝えたい」「自分は女王の時代しか知らないから」と列に並んでいる人々の思いは同じでした。

ただここでもやはり、日本人には会うことはなく、また観光客のような人が並んでいる様子もなかったという。

-そんななかで、吉原さんが女王の棺の一般公開に行こうと思った理由を聞かせてください。

吉原さん:これは列に並んでいる間に改めて胸にこみ上げてきたことなのですが、これまで24年間イギリスに住んでいて、こんなに寛大な国はあるのかと思ったのです。移民受け入れや医療費が無料など、この社会を作ったのが女王です。君主がイエスと言わなければ、制度は許可されませんから。こんな私を受け入れてくれて、長年この国で働いていられるのも女王のおかげ。だから一言「ありがとう」と言いたかった。おこがましいかもしれませんが、私にとって女王はお母さんのような存在であり、働く女性のリーダーでした。亡くなる二日前まで公務をされていた。感謝しかないです。

吉原さんが並んでいた行列はゆっくりと動いていたが、午前2時から4時までは国葬のリハーサルが行われたため列が止まり、2時間立ちっぱなしになったそうだ。列が再び動き出し、朝5時頃になると、警察官が「グッドモーニング!」と勢いよく挨拶したり、ボランティアがキャンディや飲み物、毛布を配ってくれたという。13時間近く並び、ウェストミンスター・ホールに入場したのは、一夜明けた14日午前6時40分過ぎだった。


■あまりにも小さな棺

-ウェストミンスター・ホールに足を踏み入れた瞬間、どんなことを感じましたか。

吉原さん:静けさと厳かさですね。ホールにはあんなにたくさんの人がいたにもかかわらず…です。もし天国というものがあるのならこんな場所のことを言うのかなと。そして涙が溢れてきました。それは棺があまりにも小さかったからなんです。女王はこんな小さな身体で…。そう思うと涙が溢れて止まりませんでした。同時にあの場に立つと、清らかで不思議な感覚になりました。13時間並んで、本当に良かったと思いました。あの空間には、言葉では表現できない何かがありました。あえて言うとしたら「尊厳」と「厳かさ」でしょうか。


吉原さんは棺に一礼をしてホールから出ると、"グループ"となった「仲間たち」と円陣を組んで「達成した!」と叫んだそうだ。ともに励まし合って歩き、13時間を過ごし、全員が女王への感謝を伝えられたという共通の体験が、肌の色や年齢に関係なく人々をひとつにした瞬間がそこにはあった。

吉原さん:仲間同士でグループチャットも作って「来年の(チャールズ国王の)戴冠式には、みんなで会おうね」と約束したんです。

■女王の死が人々に与えたもの

エリザベス女王の棺の前では涙する人もいたが、ホールから外に出てきた人々の表情はとても晴れやかだったという。女王の死去は多くの人に深い悲しみを与えた。しかし、それと同時に女王への思いが、人種や年齢などあらゆる違いを超越して人々を「united(団結)」させたことが、女王からの最後の「service(=奉仕)」だったのではないかと吉原さんは語る。イギリスに住む人々は、強制されたり、命令されることを嫌い、個の自由を優先する傾向が強いと言われることがある。さらに様々な人種や国籍の人々が集まる移民大国でもある。イギリスという国に対する思い、王室に対する思いも皆それぞれだ。


吉原さん:ブレグジット(イギリスのEU離脱)などもあり、問題は山積のように見えます。ですが、この国はやるときはしっかりとやる。思いをひとつにできる。この国に誇りを持っているのだ。そういうことが女王の死去を経験し、はっきりと浮き彫りになった、そんな気がします。女王という存在は皆の人生の一部だったと思います。だからこそ何十万という人々が感謝の気持ちを伝えたいと願い、あの長い列に並んだのでしょう。まさにパディントンベアですよね。エリザベス女王への「Thank you for everything」の思いです。

吉原貴子(よしはらたかこ)
日本のバブル崩壊後、1998年に英・ロンドンに拠点を置くCentre People Appointmentsに就職するため渡英。ユーロ通貨誕生、米国英国同時テロ、リーマンブラザースの経営破綻、EU離脱など歴史的な転換期を背景に、今日に至るまでリクルートコンサルタントとして在欧州日系企業の採用、日本語を話す外国人求職者への就職を支援。現在同社副社長を務める。日英のみならず世界の中の日本という立ち位置を意識しながらロンドン在住24年目となる。



(TechinsightJapan編集部 寺前郁美)