岐阜市の民家にあった大きな木製プロペラ、実はドイツの巨大旅客機をベースに戦前の日本で改修設計しライセンス製造された大型爆撃機に使われたものでした。しかも、ドイツ製の原型機は、スタジオジブリのアニメ映画にも登場しています。

民家の軒下にあった大きなプロペラ

 2021年の年の瀬、岐阜市の民家の軒下に長らく保管されていた木製2枚羽根のプロペラが、隣接して航空機産業が盛んな各務原(かかみがはら)市に寄贈されました。このプロペラは前縁が金属板で保護されており、全長が4m50cm、幅が35.5cmもある巨大なもの。大人3人でようやく抱えられるサイズで、その様子は地元の新聞にも写真入りで紹介されています。

 当初、このプロペラは正体不明であったものの、各務原市内にある岐阜かかみがはら航空宇宙博物館の調査により、1930年代初頭に旧日本陸軍が配備した大型の九二式重爆撃機に使用されたものだと判明します。プロペラは2枚羽根ながら、2つを交差させる形で十字状に連結させて、4枚プロペラとして用いたとか。なお、九二式重爆撃機はエンジンを4基搭載していたため、この巨大な2枚羽根プロペラを1機あたり8つ用いていました。

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ドイツのユンカース社製G.38大型旅客機をベースに日本で改修およびライセンス生産された九二式重爆撃機(吉川和篤所蔵)。

 ただ、この九二式重爆撃機、日本ではあまり知られていません。日本が造った4発エンジン機というと、九七式飛行艇や二式飛行艇などがあるものの、全幅はそれらよりも大きく、2022年現在、海上自衛隊が運用する4発エンジン機であるUS-2救難飛行艇よりも幅広です。

 なぜ、ここまで大きな軍用機を戦前の日本が製造したのか、九二式重爆撃機の開発経緯とともに見ていきましょう。

 第2次世界大戦前の1920年代から1930年代前半にかけて、各国では航空機の発展にともない主翼が2枚ある木製で羽布張りの複葉機から、主翼が1枚で金属製の単葉機へ、開発がシフトしていきました。その頃、航空隊を保有する日本陸軍は、将来の対アメリカ戦を視野に入れ、台湾の飛行場からフィリピンのコレヒドール要塞を直接攻撃できる長距離飛行が可能な爆撃機の導入を検討します。

また、仮想敵国であるソ連軍(赤軍)も大型爆撃機を開発中という報せが入り、これまた日本陸軍の大型爆撃機導入を後押ししました。

 しかし、1920年代末の日本の航空機産業には、4発エンジンの大型爆撃機を独力で開発する能力はありませんでした。そうした状況下、日本陸軍が眼を付けたのは、あるドイツ製の巨大旅客機でした。

世界最大の巨人機を作る

 日本陸軍は、大型爆撃機の開発を進めるため、外国製機の導入を検討します。その結果、白羽の矢が立ったのが、ドイツのユンカース社製G.38大型旅客機でした。

 波形外板で覆われた全金属製4発エンジンの同機は全長23.2m、全幅44mもあり、当時、世界最大の単葉陸上機でした。

その全幅は後に開発されたアメリカの「超空の要塞」B-29爆撃機よりも1m大きく、日本の軍用機としては近年開発されたC-2輸送機の導入まで最大クラスとなります。なお、このG.38型の巨大さは、スタジオジブリの映画『風立ちぬ』の劇中でも描かれています。

民家で見つかった大きなプロペラ→日本製「幻の巨大機」だった! ジブリ映画にも登場90年前の姿とは
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以前に展示されていた木曽川文化資料館で見学した、巨大な木製で2枚羽根の九二式重爆撃機のプロペラ。非常に堅牢な合板製で、当時の日本の木工技術力の高さも感じられる(吉川和篤撮影)。

 1928(昭和3)年、三菱航空機(現三菱重工)はユンカース社とG.38型のライセンス契約を結び、同社の技術者も招いて日本国内での機体生産と爆撃機への改造を極秘で進めます。その結果、1931(昭和6)年には10人乗りの試作1号機が完成。

前述の各務原にあった陸軍飛行場で試験飛行を行い、見事、岐阜の空を舞うことに成功しました。

 同機は旅客機から爆撃機に改造したことにより、最大速度は225km/hから200km/hに落ちていたものの、航続距離は2000kmを維持しており(G.38は最大3460km)、爆弾も通常で2000kg、最大で5000kgまで搭載できました。

 武装も7.7mm旋回機関銃8挺と20mm旋回機関砲1門を装備しており、当時としては強力なものでした。その後、同機は「九二式重爆撃機」として制式化され、静岡県浜松市にあった陸軍飛行学校で実用審査や飛行訓練に供されます。

 しかし、巨大ゆえに離着陸時の操縦が難しく、特に着陸時は斜め下側の視界不良がひどかったため、それを補うよう機首下には接地距離を目測するための長い棒を装着していたほどでした。

 また3号機以降の生産は国産部品にこだわったほか、製造コストもかさんだことなどが影響し、量産は年に1、2機程度と極めてスローペースで進められます。

さらに5号機の製造中に工場が火事にもみまわれたため、結局6号機をもって生産は終了してしまいます。

残されたプロペラが伝える物作り

 こうして、わずか6機しか造られなかった九二式重爆撃機は、実戦には一度も参加せずに日本本土や満州での試験飛行を行っただけで第2次世界大戦の敗戦を迎えました。しかし、日本がドイツの航空機製造技術を直接学び、後に全金属製の大型機を製造するノウハウを獲ることができた点を考えると、その役割は決して小さいものではなかったと言えるでしょう。

 ただ、その威圧するかのような巨体は軍のプロパガンダには最適で、製造からしばらく経過した1940(昭和15)年1月の観兵式において示威飛行を行ったほか、大戦中の1943(昭和18)年4月に兵庫県の西宮市に開業した航空館の関西国民航空練成場や、埼玉県所沢市の航空記念館などで終戦まで展示され、国威発揚などに使用されています。

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岐阜かかみがはら航空宇宙博物館で展示される九二式重爆撃機のプロペラ(下)と20分の1の同一スケールで統一された日本機の模型群。中央にひときわ大きい九二式重爆撃機の模型も見える(小島桂志氏撮影)。

 冒頭の2枚羽根の巨大プロペラは、寄贈者のハナシによると、かつて各務原陸軍航空廠で働いていた親族が終戦時に持ち帰ってきたものだそう。そこから推察するに、試作品または補用品として作られたものではないかと考えられます。

 この木製プロペラ、最近までは各務原市の木曽川文化資料館に展示されており、筆者(吉川和篤:軍事ライター/イラストレーター)も今年(2022年)5月の連休に間近で見学しました。しかし7月からは、航空機展示を専門に行う同市の岐阜かかみがはら航空宇宙博物館に移っており、同館で常設展示されています。

 ここには同一スケールで製作された、さまざまな日本製航空機の模型(九二式重爆撃機含む)と共に前出の巨大プロペラも展示されているので、同機の大きさを実感しながら急速に発展を遂げていった当時の日本航空機産業やそのモノ作りに思いを馳せてみてもよいのではないでしょうか。