線路を横切る際に便利なガード。一般的には人やクルマが通行できますが、千葉県にはそんな常識が通用しない、まさに規格外なガードが存在しました。
鉄道の線路で隔たられた土地は、その両側が人の住まない森や平原でもない限り、人やクルマが行き来するための道路が必要です。こうした線路と道路が交差するもっとも古い形態は平面交差の「踏切」ですが、「陸橋」や「ガード」などの立体交差も昔から存在。立体交差で道路が下をくぐる場合は、人やクルマが支障なく行き来できるだけの「高さ」を確保することが一般的です。
北側の入口には黄色く塗られたポールが設置され、自転車での進入に注意喚起する(植村祐介撮影)。
ところがガードのなかには、歴史的な経緯から、高さが極端に低いところが存在します。
クルマの通行が認められていてもミニバンなどは通れないガードも少なくありませんし、高さや幅の関係から、通り抜けは歩行者および自転車に限定されているところもあります。しかし、今回紹介する場所は、そんななかでも「非常識なほど低すぎるガード」です。
そのガードが存在するのは、JR内房線姉ヶ崎駅から長浦駅方面に500mほどのところです。姉ヶ崎駅の東口を出て、線路沿いを歩いて行くと、左側には駅利用者のための時間貸しや月極駐車場が並ぶ区画となります。そのままさらに歩くと、小さな十字路があらわれ、右側には線路を反対側に渡る「浜町踏切」があります。
さらに約150m進むと、反射材で描かれた大きな矢印看板とガードレールが設置され、それまで線路沿いを進んできた道路は左へと曲がります。このガードレールにはわずかな切れ目が設けられ、その奥に一段下がったスペースがあり、線路の下につながっています。
といってもガード下はかなり低く、腰をかがめてのぞき込むことで、線路の向こう側に通じていることがようやくわかります。階段を2段下りたところのガード下の路面は道路の路面とは40cmほどの高低差がありますが、それでもガード手前を横切る鉄骨は大人の腰くらいの高さで、ガード下の路面とのクリアランスは1mに足りないくらいしかありません。
当然、立ったままの姿勢で歩いて進むことは不可能で、通り抜けるには腰をかがめ、さらに膝を曲げた窮屈な体勢で、複線の線路幅分、12~13mを進む必要があります。自転車を押して歩くことは、まず不可能でしょう。
ガード下の足元にはコンクリートが敷設され、長浦駅側にはグレーチングで塞がれた排水溝が通っています。上り線と下り線との間にはわずかながら「明かり区間」がありますが、金属製のネットで覆われ、背を伸ばすことはできません。
近くに踏み切りあるのにナゼ? ヒントは昔の航空写真に首尾良く反対側に通り抜け、4段の階段を上がると道路にでます。道路との境には黄色く塗られたポールが立てられ、クルマや自転車の不用意な進入に注意喚起しています。

電車の往来は、上り下り合わせ日中は1時間に6本ほど、朝夕のラッシュ時は10~12本ほど(植村祐介撮影)。
通常、こういった低すぎるガードには「高さ制限」や「車両進入禁止」といった規制標識が付きものですが、このガードには「とても通れそうにないこと」が一目瞭然のためか、その類いの標識はありません。
ガード下を出て線路沿いを長浦駅方面にさらに歩くと、約90mで「大河岸踏切」です。
つまりこのガードからは、どちらの方向にも線路に沿って1~2分歩けば踏切があり、歩行者は反対側に渡ることができます。また内房線のこの区間は運転本数も多くはなく、ふたつの踏切が“開かずの踏切”というわけでもありません。
なぜこうした環境で、この地面を掘り下げたような窮屈なガードが生まれ、いまだに存在してるのでしょうか。
現在は駅近の住宅地が広がるこの地域は、1970年代~80年代まで、ほぼ農地でした。その時代の航空写真を見ると、このガードをくぐる用水路らしき影が見えます。つまりこのガードは、そもそも用水路とその側道を通すために作られたのでしょう。そしてその後、周辺が宅地化されるにあたり、地盤がかさ上げされ、このとき用水路は暗渠となりました。こうした地盤の改良が、線路沿いの道路とガード下の路面との高低差を生んだと考えられます。
そしてこのガードと浜町踏切の間の線路南側は袋小路だらけで、また大河岸踏切との間の線路南側は大きなお寺の敷地となり、線路と並行に歩いて通り抜けられる道がありません。そのためこれらの踏切を使うと、線路の北側から南側の住宅地まではかなりの大回りを強いられます。これが、このガードがいまだ交通に供されている理由ではないでしょうか。
なお、こちらを訪ねる際は、天候のいい日をおすすめします。傘を差しての通り抜けは困難で、雨天時はずぶ濡れになる覚悟が必要でしょう。