自衛隊の「災害派遣」は地震や台風などの「天災」のみならず、事故や事件など「人災」を受け出動することもあります。そのひとつに、かつて東京湾沿岸を20日間にわたり戦慄させた「第十雄洋丸事件」が挙げられます。
海上自衛隊は発足以来、幸いにして海戦は行ったことはありません。しかし、実船に向けて攻撃を加えたことはあります。災害派遣でですけれども。それが1974(昭和49)年11月9日に起きた「第十雄洋丸事件」です。
1974年11月9日、東京湾内の海上で「パシフィック・アレス」と衝突し炎上する「第十雄洋丸」(画像:国交省東京湾口航路事務所)。
その日、世界屈指の過密航路として有名な東京湾の中ノ瀬航路で大事故が起こりました。プロパン、ナフサ、ブタンなど総計5万7000tを積載した「第十雄洋丸」と、大量の鋼材を積載した貨物船「パシフィック・アレス」の衝突事故です。
「パシフィック・アレス」が「第十雄洋丸」の右舷船首側に突き刺さる形で衝突、「第十雄洋丸」に積載されていた可燃性の高いナフサに引火し瞬く間に大爆発を起こすと、両船は猛火に包まれました。この一瞬で「第十雄洋丸」側の死者は5名、生存者は34名、正面からナフサを浴びてしまった「パシフィック・アレス」側は死者28名、生存者1名という大惨事となります。
第三管区海上保安庁の消防船と巡視船のほか、東京消防庁、横浜市消防局、民間の港湾作業船も出動して消火作業に当たりますが、ナフサは海上にも流れ出し、現場は文字通り火の海。さらに間の悪いことに折からの強風にあおられて炎上する2隻は漂流を始め、横須賀方向へと流され出してしまったのです。
このままでは横須賀港に激突、陸上にも被害がおよびかねません。

炎上する「第十雄洋丸」(画像:国交省海難審判所)。

炎上する「第十雄洋丸」に消火液を散布する海上保安庁の消防艇(画像:海上保安庁「海上保安レポート2009」)。

焼損した「パシフィック・アレス」(画像:国交省海難審判所)。
座礁した「第十雄洋丸」は、ここでナフサやプロパンを燃やし尽くす予定でしたが、それに沿岸の養殖業者などが反発。結局、炎上したまま太平洋上まで運び、そこで燃やし尽くすことになりました。
こうして太平洋へ向けて再度のえい航を開始、東京湾をぬけて、目的地まであと少しのところで再びの大惨事が起こります。再度ナフサが大爆発を起こし、えい索を切り離して漂流を始めたのです。
再びの大炎上と漂流! 助けて海上自衛隊!!炎は船の全タンクに回り、大炎上。さらに黒潮の流れに乗って漂流を開始したため、危険性は前回の比ではありません。
海上保安庁は、これを甚大な災害とし、「第十雄洋丸」の処分を求めて自衛隊の出動を要請しました。

護衛艦「はるな」は前年1973年2月に竣工したばかりの、当時最新の護衛艦だった(画像:海上自衛隊)。
海上保安庁からの要請を受け、防衛庁長官より海上自衛隊への出動命令が下されました。派遣されることになったのは、護衛艦「はるな」「たかつき」「もちづき」「ゆきかぜ」、潜水艦「なるしお」そしてP-2J対潜哨戒機となりました。
計画はこうです。まずは艦砲射撃や爆撃により、タンクに穴をあけて、ナフサなどすべてを燃やし尽くします。その後、魚雷により船体に穴をあけて撃沈処分。この方法であれば強靭な特殊鋼でつくられたタンカーでもなんとか、穴があけられるのではないかと考えられました。
最初の事故から2週間以上が経過した11月26日。最終調整ののちに自衛艦隊は燃える「第十雄洋丸」目指して横須賀を出港しました。27日に現場に到着。そこでは時折火柱を上げて燃え盛る「第十雄洋丸」がゆっくりと漂流し、その周りを海上保安庁の巡視船が監視しています。

はるな型護衛艦は前甲板に5インチ砲を2門搭載(画像:海上自衛隊)。

たかつき型護衛艦は5インチ砲を2門搭載し、当時の海自護衛艦のなかでは砲撃力が高いほう(画像:海上自衛隊)。

上空からロケット弾や対潜爆弾で攻撃したP-2J対潜哨戒機(画像:海上自衛隊)。
まず、「第十雄洋丸」の右舷側に4隻の護衛艦が単縦陣(各艦が縦一列に並ぶ陣形)を組み、合計9門の5インチ(127mm)砲で一斉に砲撃を行いました。合計36発の砲弾は狙い違わず右舷外板に命中し大きな火柱が上がります。
艦隊は次に左舷側に移動、同じく36発をその船体に叩き込み、狙い通り大爆発を起こすことに成功しました。その火柱は100mの高さにのぼり、黒煙は2500mにまで達したといいます。
「不沈艦」相手に大苦戦! やがて訪れるその「時」翌朝。新たな攻撃が行われます。まず4機のP-2Jが高度1500mから急降下し、127mm対潜ロケット弾12発を発射。ロケット弾は甲板に突き刺さり、またも大爆発が起こります。
しかし、ここまで攻撃を受けても「第十雄洋丸」は沈む気配を見せません。

「なるしお」はうずしお型潜水艦の4番艦で、前年1973年9月に就役した当時最新鋭の潜水艦であった(画像:海上自衛隊)。
ここで攻撃の本命となる潜水艦「なるしお」が登場。Mk.37魚雷の発射準備に入ります。この魚雷はホーミング(音響探知)能力を持っていましたが、動力を使用せずただ漂流する「第十雄洋丸」に対しては、その誘導能力も使用できず、「目標に対して発射する」という単純な方法で4発発射しました。
魚雷攻撃の終了後、3度目の艦砲射撃が行われ、さらなる大火災を起こすものの、「第十雄洋丸」は炎上しながらその姿を見せ続けており、「これは不沈艦なのでは?」と不安になる隊員もいたようです。自衛艦隊司令部も増援として呉で待機していた潜水艦「はるしお」に出動命令を出しました。
しかし、ようやくその「時」は来ました。潜水艦「はるしお」が呉を出港してすぐ、「第十雄洋丸」は数回の大爆発を起こし、後部甲板が沈み込み始めたのです。海中から「なるしお」も浮上し、すべての船がその様子を、息を飲んで見守りました。つぎつぎとタンクが爆発し、その火柱は300mを超えます。
現在ほど、自衛隊が注目を集めていなかった時代、実弾を用いたこの災害派遣についてはそれほど大きく報道されることはありませんでした。しかし、この海難事故と海上自衛隊の活躍については、2018年現在でも海上自衛隊内で、語り継がれています。
【写真】艦砲射撃の瞬間 火を噴く2門の5インチ砲

前甲板の5インチ(127mm)砲を射撃するはるな型護衛艦(画像:海上自衛隊)。