人がたくさん住んでいる東京でも、廃止された駅がありました。利用者減少以外にもさまざまな理由が見られます。

そうしたなかから、「路線は存続しているけれど廃止されてしまった駅」を紹介します。

新駅開業の一方で東京都内にも多数ある廃駅

 2020年、東京では新駅がふたつ誕生しました。3月14日(土)の「高輪ゲートウェイ」と、6月6日(土)の「虎ノ門ヒルズ」です。人が集まるところ、新しいまちづくりが始まるところに駅ができます。一方、地方では過疎化によって利用者が減り、廃止される駅があります。しかし実は、東京でも廃止された駅がありました。人々が集まり鉄道の利用者が多い東京で、なぜ、駅が廃止されたのでしょうか。

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レンガ造りになっている箇所に、かつて万世橋駅があった。遺構を活用し、商業施設「マーチエキュート神田万世橋」が営業中(画像:写真AC)。

 東京の廃駅の大御所といえば汐留駅でしょう。日本の鉄道開業時の新橋駅で、のちに貨物専用の汐留貨物駅となりました。2020年現在は再開発されて高層ビルが建ち並び、その一角に旧新橋停車場の一部が再現されています。

これは貨物線そのものが廃止になったための廃駅です。

 ところが、路線は存続しているにもかかわらず、駅だけが廃止になった事例もあります。そのうち、地上駅を紹介します。

関東大震災で被災「万世橋駅」(国鉄)

 万世橋駅は遺構が残っている駅としてよく知られています。現在のJR中央線 神田駅と御茶ノ水駅のあいだにありました。2020年現在はショッピングモール「マーチエキュート神田万世橋」になっています。プラットホームがあった場所はレストランがオープンし、電車の通過を間近に眺めながら食事を楽しめます。

立派な駅舎を持つターミナル駅だったが… 変化した交通環境

 万世橋駅は1912(明治45)年4月に中央本線のターミナル駅として開業しました。食堂や一等待合室もある立派な駅舎だったそうです。しかし7年後の1919(大正8)年に東京駅が開業したため中間駅となります。そしてさらに4年後の1923(大正12)年に起きた関東大震災で駅舎を失いました。復旧後の1925(大正14)年に東北本線の秋葉原~神田間が開業し、市電のルートも変わるなど、付近の交通環境が変わります。

 1936(昭和11)年には駅に隣接して交通博物館ができました。しかし利用客は回復せず、1943(昭和18)年に万世橋駅は休止となりました。今度は再開されず、事実上の廃止となりました。

空襲で壊滅 池上電気鉄道「桐ヶ谷駅」

 現在の東急電鉄池上線にあった桐ヶ谷駅は、1945(昭和20)年の東京大空襲で破壊され、その2か月後に休止扱いとなり、再開されないまま1953(昭和28)年に廃止されました。場所は大崎広小路~戸越銀座間です。1927(昭和2)年に池上電気鉄道が雪ヶ谷(現・雪が谷大塚)駅から桐ヶ谷駅まで延伸したときの終点でした。その2か月後には大崎広小路駅へ延伸して中間駅となります。

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池上電気鉄道 桐ヶ谷駅の位置(国土地理院の地図を加工)。

 桐ヶ谷駅はなくなりましたが、東京23区南部の人々には桐ヶ谷斎場として地名が知られています。桐ヶ谷斎場は江戸時代から続く荼毘所(だびしょ)で、1885(明治18)年に火葬場として霊源寺から独立しました。桐ヶ谷駅は斎場最寄り駅としても重要でしたが、東京大空襲で周囲が焼け野原になったこと、大崎広小路駅や五反田駅まで近いことなどが廃止の理由になりました。

 東京大空襲関連の廃駅はほかにも、京浜電鉄の出村駅、東急東横線の並木橋駅、東武亀戸線の北十間駅などがあります。

意図通りの効果がなかった「請地駅」「京成請地駅」

 1931(昭和6)年、東武鉄道は伊勢崎線に請地(うけじ)駅を設置しました。業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)と曳舟駅の中間地点です。ここは東武伊勢崎線と京成本線(現・押上線)が接しています。翌年には京成側にも京成請地駅ができました。

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東武伊勢崎線 請地駅と京成本線 京成請地駅、および隅田公園駅の位置(国土地理院の地図を加工)。

 東武鉄道と京成電鉄は都心乗り入れなどを巡って競合していました。その両者が乗換駅を設置しようと合意。当時はライバルの握手として話題になったようです。ところが、実際には業平橋駅と押上駅で乗り換える乗客が多く、請地駅と京成請地駅の利用は意図通りとはいえなかったようです。

 京成請地駅は戦時中に不要不急駅とされ、1947(昭和22)年に廃止。請地駅も1946(昭和21)年に休止したまま復活せず、1949年に廃止されました。

同じく不要不急の指定 東武伊勢崎線「隅田公園駅」

 京成請地駅のように、第二次世界大戦の末期、利用客が少ないことや近隣に他社線を含む利用の多い駅があることで、不要不急と指定され休止、その後復活しなかった駅がほかにもあります。

 同じく東武伊勢崎線の隅田公園駅は文字通り公園の最寄り駅で、用途からして不要不急の対象でした。場所は先述した請地駅のふたつ隣、隅田公園(墨田区)の南側です。1931(昭和6)年、東武鉄道が業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)から浅草雷門駅(現・浅草駅)へ延伸し、都心進出を果たしました。そのときに設置された中間駅です。隅田公園の整備は、関東大震災の復興事業のひとつでした。

 しかし、駅の利用者は公園利用者ばかりで少なく、また、近隣の浅草雷門駅や業平橋駅に近いことなどから、1943(昭和18)年に不要不急指定されたようです。

復活しない理由は「長編成化」と「スピードアップ」

 東京都内の駅が最も多く廃止された時期は戦時中でした。先述の通り、空襲による被害、不要不急指定などです。それらも含めて廃止された駅を挙げましたが、戦時下で休止しても復活しなかったのには共通点があります。それは、編成数の長大化とスピードアップです。

 列車の編成が長いと、駅を出てもすぐ隣の駅に着いてしまいます。駅に停車すればそれだけ、路線全体の所要時間は増えます。

そこで、隣の駅に近い駅同士を比較して、乗降客数の少ない駅を廃止するのです。

 たとえば京急電鉄は高架化を機に、北馬場駅と南馬場駅を統合して新馬場駅(品川区)としました。付近にあった浜川駅、出村駅も廃止されました。京王電鉄では、新宿~幡ヶ谷間で駅間距離の短かった葵橋駅や幡代駅などが廃止されました。

 廃駅のなかには、再開発などの理由で復活させようという動きもあるようです。あるいは今後も、スピードアップのために駅を統合するという構想が生まれるかもしれません。鉄道利用者が多い大都市でも、駅の廃止、統合は例外ではありません。

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