西日本を襲った豪雨で九州の鉄道は大きな被害を受けました。熊本と鹿児島を結ぶ肥薩おれんじ鉄道もそのひとつですが、レストラン列車「おれんじ食堂」は、予定通り月末の再開を目指すといいます。
2020年7月3日から数日にわたって九州地方を襲った「令和2年7月豪雨」は、場所によっては1時間100mm以上にも及ぶ猛烈な降水量で、各地の鉄道にも大きな被害を及ぼしました。「観光列車王国」とも呼ばれるほど列車の種類が多彩な九州地方ですが、外出自粛の影響による運休から通常の体制に戻ろうとしていた「ななつ星」など、各地の観光列車は運行予定を大幅に変えざるを得ない事態に陥っています。
そのなかで、運行再開を目前にしていたもののひとつが、肥薩おれんじ鉄道のレストラン列車「おれんじ食堂」です。熊本から鹿児島にかけて広がる海沿いの絶景を眺めながら、車内でコース料理を味わえるこの列車は、新型コロナウイルスによる外出自粛の影響もあり、2020年3月末から運休していました。その間、車両の定期的な全体検査を進め、車両もピカピカになったタイミングで地域を襲ったのが、今回の豪雨です。
東シナ海に沈む夕陽を背に走る「おれんじ食堂」(画像:肥薩おれんじ鉄道)。
肥薩おれんじ鉄道の出田貴康(いでたたかやす)社長によると、周辺の天気が崩れ始めた7月3日にはほぼ通常運行を保っていたものの、4日未明に1時間あたり50ミリを越える雨が数時間降り続き、朝には運行ができない状態となりました。「おれんじ食堂」の運行再開を7月31日に控えていたなかでの今回の災害に、出田社長も無念さを滲ませます。
沿線の熊本県芦北町(あしきたまち)内では、4日未明に起きた川の氾濫のため、線路や駅などが水没し、トンネルは土砂の流入で天井近くまで埋まったそうです。このほか、肥薩おれんじ鉄道線の被害は八代~川内(せんだい)間の全線で45か所以上にも及んだといいます。全線での運行再開は、2020年7月14日(火)現在でめどが立っていないそうです。
レストラン列車「おれんじ食堂」は、2013(平成25)年に運行が開始されました。当時の社長が世界的に有名なスイスの観光列車「氷河特急」にヒントを得て計画が始まり、手持ちの車両が、工業デザイナーである水戸岡鋭治さんの設計によって、上質の「走るレストラン」に生まれ変わりました。
「おれんじ食堂」の走行区間は全線で約120km、所要おおよそ3時間と、コース料理を堪能するには十分な時間があります。そして、窓に広がる東シナ海の眺めは何ものにも代え難く、あたりが真っ赤な夕陽に包まれる時間帯は、まるで風景画のなかを走っているようです。さらに、沿線地域はもちろん食材の宝庫。運行条件や風景、そして地元の豊富な食材と、この鉄道路線にはレストラン列車を走らせる好条件が揃っていたのです。

肥薩おれんじ鉄道の出田貴康社長(画像:肥薩おれんじ鉄道)。
また、社長だけでなく、大勢の人々がこの観光列車のために情熱を注ぎました。たとえば社員は、列車が長時間停車する薩摩高城(さつまたき)駅に、総出で海岸線までの遊歩道を建設してしまうほど。メニューを考案するレストラン、おもてなしを行う地元の方々など、沿線地域が手を取り合って、この地でしか味わえないサービスを作り上げていったのです。食堂車の運行は運輸、サービス業、そして生産者など異業種どうしの協力の上に成り立つもので、地域のそれぞれの業種が横の繋がりを持つ絶好の機会でもあります。
いまでは全国に多く存在する観光列車ですが、地元・地場の素材や人を生かした「レストラン列車」「食堂車」は、鉄道旅行だけでなく沿線地域そのものへのファンを増やす役割を果たしています。
今回の「令和2年7月豪雨」では、大正時代から現役だった鉄橋が落橋した球磨川沿いのくま川鉄道(人吉温泉~湯前)など、路線自体が存続の危機に立たされるケースも発生しています。またJR九州では、「SL人吉」「いさぶろう・しんぺい」が走る肥薩線、「ゆふいんの森」が走る久大本線など、列車そのものを観光資源にして経営を支えてきた路線も大きな被害を受けており、ただでさえコロナ禍が続くなかで、切り札的な存在であった観光列車を使えなくなった痛手は計り知れません。
加えて、被災地における鉄道の運行再開に向けた、人の移動の確保にも困難が付きまといます。肥薩おれんじ鉄道の社員では、居住する集落の孤立で6日間出社できなかったケースもあったそうです。

肥後二見~上田浦間では土砂が流入した(画像:肥薩おれんじ鉄道)。
そうしたなかで同社は、7月5日には鹿児島県出水市内の一部区間で運行を再開しました。沿線の水俣市、出水市、阿久根市などに高校が点在し、学生の利用が全体の7割以上を占めるこの鉄道は、ひとしく教育を受ける地域の環境づくりには欠かせません。
通勤・通学定期の大きな需要があっても利益を取りづらい地方の鉄道にとって、利益幅が大きい観光客は生命線でもあります。車両というわずかな面積の空間に、地域の良いところを凝縮する観光列車は、採算に苦悩する鉄道に付加価値を生み出す役目も担っているのです。
肥薩おれんじ鉄道は現在、広く寄付を募るなどして全線再開へ向けて準備を進めています。出田社長によると、「おれんじ食堂」も7月31日の当初予定は変わらず、運行できる区間での再開にむけて準備中だそうです。
なお、今回の豪雨被害は岐阜県や長野県など広域に及んでいますが、全国的には、多くの観光列車が7月初頭から徐々に運転を再開しています。新型コロナウイルスの影響で移動に抵抗がつきまとうなか、何か所もの観光地を巡るのではなく、車両のなかに「ステイ」するだけで楽しめる観光列車には、新しい生活様式に合った需要が隠れているかもしれません。