平成スポーツ名場面PLAYBACK~マイ・ベストシーン
【2005年10月 ゴルフ 宮里藍 日本女子OP優勝】
歓喜、驚愕、落胆、失意、怒号、狂乱、感動......。いいことも悪いことも、さまざまな出来事があった平成のスポーツシーン。
平成に入って最初の10年間は、昭和40年代後半から日本ゴルフ界をけん引してきたジャンボ尾崎の全盛時代。1994年(平成6年)から5年連続で賞金王に輝くなど、多くのファンを沸かせて、国内男子ツアーの人気を支えていた。
そうした流れが変わったのが、2003年(平成15年)。当時高校3年生の宮里藍がミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープンで優勝し、国内女子ツアーへの注目度が一気にアップした。そして、宮里藍が直後にプロ転向を果たすと、それから2年後には国内ツアーの人気が完全に逆転。
その女子ツアーへの人気を決定づけた試合が、2005年(平成17年)の宮里藍が優勝した日本女子オープンだった。
神奈川県の戸塚カントリー倶楽部で開催されたその年の日本女子オープン。最終日には、2万1018人の大観衆が詰めかけた。2016年、人気プレーヤーの松山英樹、石川遼、アダム・スコットが予選ラウンドで同組でプレーし、最終的に松山が優勝した男子の日本オープンでも、4日間トータルの入場者数が4万5257人だったことを思えば、1日で2万人強という数字は、今もって驚きである。
宮里藍が2位に6打差の首位で迎えた最終日、打ち下ろしの1番ホールはティーグラウンドからグリーンまで、ぎっしりとギャラリーで埋め尽くされていた。
それに応えるべく、帽子のツバに手をやる宮里藍の姿は、まるで声援に押し潰されないように、頭を低くして歩いているようにも見えた。それは、過去の日本ゴルフ観戦では見たこともない光景だった。
思い出すのは、10番ホールでのこと。コースを取り囲むギャラリーの、ある親子3人家族の前を宮里藍が通った時のことだ。
母親が3歳ぐらいの娘に対して「ほら、藍ちゃん、来るよ。
すると、どこからか「藍ちゃ~ん、がんばってぇ~」という子どもの声が聞こえ、宮里藍がそっちのほうに顔を向けた。それを見た、3人親子の母親は「ほらぁ、藍ちゃん、優しいでしょ」と、あらためて娘に言った。
この日、宮里藍は「藍ちゃん、がんばってぇ~」という子どもたちの声に反応し、「藍ちゃん、がんばれ!」という大人たちの声援には帽子のツバに手を添えて応え続けた。その姿を見て、他の子どもたちも、そして大人たちも、勇気をもって大きな声で声援を投げかけることができた。
戸塚CCに来たファンの多くが、プレー以外の何かに心を動かされたのだとしたら、それは宮里藍のこういった姿だったと思う。それまで、声をかけても無視されて、なんだか窮屈だった日本のゴルフ観戦に風穴を開けた日――それがこの、宮里藍が優勝した日本女子オープンの最終日だった。
翌2006年(平成18年)、宮里藍はプロ入り3年という異例の早さで米女子ツアーにチャレンジする。3年間は結果を出せなかったが、2009年(平成21年)にエビアンマスターズでついに米ツアー初優勝を飾って、翌2010年(平成22年)には、日本人として初めてワールドランキング1位まで上り詰めた。
2005年(平成17年)のあの日、戸塚CCにはゴルフの試合には珍しく子ども連れのギャラリーが多かった。両親は、自分の子どもたちに"藍ちゃん"を見せたかったのだろう。
その子どもたちの中には、平成10年、11年生まれで、当時小学校の低学年でゴルフを始めたばかりの子もたくさんいただろう。彼女たちは、宮里藍がフェアウェーを颯爽と歩く姿を見て、「自分もああなりたい」と思って、のちにプロとなった子もいるに違いない。
それが、これからの令和の時代の主役となっていくであろう、畑岡奈紗、勝みなみ、新垣比菜、小祝さくら、原英莉花、三浦桃香、河本結、吉本ひかる、渋野日向子ら『黄金世代』だ。2005年(平成17年)の日本女子オープンは、そんな時代を画する試合でもあったのである。