リーガに挑んだ日本人(1)

 日本人がスペイン、リーガ・エスパニョーラに挑戦する――。それはもはや日常と化している。



 乾貴士(エイバル)、久保建英(マジョルカ)はトップリーグで活躍を遂げ、柴崎岳(デポルティーボ・ラ・コルーニャ)、岡崎慎司(ウエスカ)、香川真司(サラゴサ)は2部リーグで奮闘し、安部裕葵はバルサBから虎視眈々とトップデビューを狙う。名門レアル・マドリードの下部組織では、今年17歳になる中井卓大が研鑽を積んでいる。

 今やスペインで、日本人選手は珍奇な存在ではない。

 だがかつて、これが夢物語に近い時代があった。昔話というほど昔のことではない。21世紀に入って、徐々に先人たちが足を踏みしめ、"開拓"してきた。


 その先駆けになったのは、当時、日本サッカー界で「天才」の名をほしいままにした男だった――。

中田英寿を上回る天才に起きた悲劇。リーガに「ぶっとんだ自信」...の画像はこちら >>
 1993年、日本で開催されたU-17世界選手権で、その男・財前宣之は頭角を現している。グループリーグ3試合(ガーナ、イタリア、メキシコ)すべてでマン・オブ・ザ・マッチを受賞。さまざまな球種を蹴り分けるセンスは、称賛の的だった。日本のベスト8進出に貢献して大会ベストイレブンにも選ばれる。攻撃的MFとしては、その後イタリア代表として活躍することになるフランチェスコ・トッティを凌ぐ評価だった。

「中田(英寿)はよく言っていました。『ザイ(財前)が見本だった」って』

 当時、U-17代表コーチだった小見幸隆氏はそう証言していた。

「ザイのような天才がいたから、中田も刺激を受けた。右に切り返す動きひとつをとってもスルーパスにつながっていて、センスに驚かされました。U-17代表でも圧倒的なうまさで、練習でデモンストレーションをするのは、いつもザイでした。中田はそれを体育座りで見ていましたね」

 中田に限らず、宮本恒靖松田直樹も、凡庸に見えたという。

たとえば、自陣から敵陣に長いボールを蹴り込んでの攻撃で、財前はアウトサイドでスピンをかけてボールを蹴り、タッチラインを割らずにコントロールできた。インサイドでは、当たり前のように蹴ることができた。

 17歳だった財前が狙っていたのは、Jリーグではなく世界デビューだ。そこで高卒と同時にヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)と契約したまま、イタリア、セリエAのラツィオへ留学。ユース在籍だったが、アレッサンドロ・ネスタもいた環境で、ズデネク・ゼーマン監督からトップ練習参加も許されていた。

 そして1996年7月、スペイン1部のログロニェスに入団することになった。



「スペインのほうがボールを回すスタイルなので、自分に合っているんじゃないかって。イタリアに1年留学していたのもあって、ぶっ飛んだ自信はありましたね」

 拙著『アンチ・ドロップアウト』(集英社)の取材で、財前は当時の心境をそう振り返っている。

 しかしリーガは、プロ経験のない日本人が飛び込んで戦えるような甘い場所ではなかった。クラブはもともと「ミウラマネー(ジェノアにいた三浦知良の獲得)」を重視。財前はその前奏曲だったと言われ、その交渉がとん挫したことで立場を失った。

「現場はストライカーの獲得を要求したのに、連れてきたのは日本人MFだった」

 当時、ログロニェスを率いていたミゲル・アンヘル・ロティーナ監督(現セレッソ大阪監督)はこう洩らしていた。


「経営戦略の犠牲になった財前を、気の毒に思ってね。日本のテレビクルーが来た練習試合では、プレーさせていた。スモールスペースでのプレー技術は高い選手だったよ。相手ボックスの近く、密集地帯で見せるテクニックは信じられないレベルだった。

 ただ、試合で使えるだけの経験が不足していた。うまい選手はうんざりするほどいる。

90分、1シーズンを戦い抜く体力、気力が求められる。何より、彼はひざの問題を抱えていたから......」

 実はこの数カ月前、財前は膝の前十字靭帯を断裂していた。治療、リハビリを重ね、復活してスペインに入ったが、万全ではなかった。そして入団して3カ月後、再び、前十字靭帯を痛めてしまう。復帰を急いだことが裏目に出た。踏ん張った瞬間、同じ左足だった。

 財前は帰国を余儀なくされた。選手登録はされておらず、スペイン挑戦は、言わば幻に終わった。

――もしタイムマシンに乗れたら、ログロニェスにいた自分に何と声をかける?

 そんな問いに、財前はこう答えていた。

「『お前、イメージが先行しすぎているんじゃない?』ですかね。俺は体を作る前にヨーロッパに行ってしまった。中田はJ1で実績を作ってからで、正解。まずはプロの試合でプレーしてっていうので、出場機会があるチームを選んだのも賢い」 

 しかし、彼はこうも言葉を継いだ。

「俺は前十字を3回も切って、サッカーを続けられた。ケガも実力のうちですけど、その後で、『どうしたらサッカーできるか』でやってきました。大ケガをした人でも、サッカーをやれる姿を見せられたと思っています」

 誇らしげにそう言った財前は、ベガルタ仙台モンテディオ山形で昇格の切り札になるプレーを見せている。そして2012年1月に引退するまで、中田、宮本など日本を代表した選手より、長く現役生活を続けた。それはひとつの勲章だった。

 ちなみにログロニェスは、財前が在籍したシーズンに2部へ転落。巨額の負債が発覚し、坂道を転げ落ちていった。そして2009年には、財政破綻で消滅している。
(つづく)