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「オープン球話」連載第42回

【若手時代は左投手を苦にしていた掛布雅之】

――八重樫さんに当時の思い出話を伺うこの連載。1985(昭和60)年、阪神タイガース日本一の原動力となった「ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布」編の後編に参りたいと思います。

前回は三番のバース選手についてお尋ねしましたが、四番を打っていた掛布さんについて、八重樫さんはどんな印象をお持ちですか?

八重樫 彼がまだ若い頃は、多くの左バッターと同じように、かなり左ピッチャーを苦手にしていたんです。当時のヤクルトには安田(猛)さん、梶間(健一)がいたけど、最初の頃はほとんど打たれていないんじゃないかな。でも、次第にバッティング技術が向上して進化していったんだよね。全盛期には、左ピッチャー相手の時、右に引っ張る意識はほとんどなかったと思うよ。

破壊力抜群1985年のタイガース打線。八重樫幸雄がとった掛布・岡田対策は?

1985年4月、バース、掛布に続いてバックスクリーンに本塁打を放った岡田

――日本一になった1985年当時は、すでに左ピッチャーとの対戦ではレフトに流し打つ意識があった?

八重樫 うん。その頃から右に打たれた記憶がほとんどないんですよ。
特に甲子園球場での試合は、レフト方向に打者にとっていい風が吹くんです。掛布はその風を利用するように左に強い打球を打っていたんだよね。とにかく、リストの利いたいいバッティングをしていた。長打だけじゃなく、効果的な単打も多かったし。

――当時、「掛布対策」はどうしていたのですか?

八重樫 掛布はインサイドでカウントを稼いで、アウトコースの変化球で仕留めるというのがパターンだったね。右投手の外に落ちるシンカーとか、ちょっとでも落ちたら引っかけて内野ゴロになることが多かったから。
前回、「バースはインハイを攻める」と言ったけど、五番の岡田も同じでした。入団してからしばらくの間、岡田はインコースにストレート、そのあとにシュートがくるとポップフライばかりだったよ。

【3人で「1点、2点はしょうがない」】

――バース、掛布さんは左バッターで、岡田さんが右バッターでした。打順としては「左、左、右」と続きます。この並びについて、八重樫さんはどう考えていましたか?

八重樫 当時の吉田(義男)監督にどういう意図があったかはわからないけど、個人的には「オーソドックスなタイプのクリーンナップだな」と思っていました。バースも掛布も左ピッチャーを苦にしないし、広角に打ち分けるのが得意なバッターでした。

3人の中では岡田だけは穴もあったけど、パンチ力があるバッターだったね。

――広角に打ち分けられるバース、掛布さんでチャンスを広げてランナーをためてから岡田さんの長打で得点する。そんなイメージでしょうか?

八重樫 そうだね。バース、掛布はそれぞれ広角に長打を打てるので、2人で1点。仮に二、三塁になっても、岡田が最低でも犠牲フライを打つから1点。あるいは長打が出れば一気に大量得点。
そんな感じだったかな?

――前回も触れましたが、1985年はバースが54本塁打でホームラン王、掛布さんが40本塁打、岡田さんが35本塁打。一番の真弓明信さんも34本塁打ですから、相手チームとしては阪神打線は脅威でしたね。

八重樫 「1点、2点はしょうがない。大量失点だけは気をつけよう」といった意識で戦っていたよ。特に1985年のバースについては、ほとんどまともに勝負していないから(笑)。強いて言えば、岡田のところで少しだけホッとできる程度だけど、もちろん岡田も十分に気をつけないといけないからね。


――あの3人に打たれた思い出、忘れられない一発はありますか?

八重樫 あまりにも打たれすぎたから覚えていないよ(笑)。バースとは勝負を避けていたからあまり打たれていない気がするけど、掛布には甲子園でレフトポール際に、キレそうでキレない逆転ホームランを打たれたこともあったな。

【猛虎フィーバーは本当にすごかった】

――1985年に阪神がセ・リーグ優勝を決めたのは神宮球場のヤクルト戦でした。このときのことはご記憶にありますか?

八重樫 あの日のことはよく覚えています。その前に、この年の"猛虎フィーバー"が過熱していくにつれて、神宮球場周辺にも「大阪ナンバー」の車がすごく多くなっていくことに気づいていたんだよね。しかも、運転席でみんな鉢巻きしている(笑)。

そもそも気合いの入り方が違っていたから、優勝を決めたゲームも試合が始まるときには球場が真っ黄色だったでしょう。

――21年ぶりの優勝ということで、確かにみんな盛り上がっていたし、正直なところ神宮球場での試合もヤクルトファンよりも阪神ファンの方が多かったし、元気でしたね。

八重樫 プレーしていても、レフトスタンドからの声援が地鳴りのように響いてくるんですよ。優勝を決めた試合では球場が揺れた感じがしたな。レフト、三塁側を中心にしてグワーッと揺れた気がしたんだよ。

――相当、強烈なヤジも飛んだんじゃないですか?

八重樫 ヤジは多かったね。「コラ、ええ加減にしろ。この回はタイガースが逆転じゃ!」って言われて、「あっそ」と返したこともあった。こちらが冷静であればあるほど、彼らはカッカするんだよ。それを見るのがおかしかったな。もっと強烈なヤジの場合は「うるせぇ、この野郎!」って、こっちも怒鳴り返したね(笑)。

――穏やかで優しそうな若松勉さんなら言い返せなさそうなので、代わりに八重樫さんが言い返したんですか?

八重樫 若松さんって大人しそうに見えるでしょ。でも、いざ試合が始まって、強烈なヤジを言われたら、さすがの若松さんも「黙ってろ!」って怒鳴ってたよ。ああ見えて気が強いんです。そうでなければ、あれだけ小さな体で一流の打者にはなれないんじゃないのかな。意外でしょ?(笑)

――すごく意外です(笑)。では、最後に「バース、掛布、岡田」の3人について、八重樫さんのまとめをお聞かせください。

八重樫 1988年にバースがシーズン途中で帰国して、掛布もこの年限りで現役を引退するまであのクリーンナップは続いたけど、やっぱり強烈に印象に残っているのが1985年シーズンだね。掛布は若い頃は穴が多く、バースも来日1年目は欠点もあったけど成長して、1985年は岡田の打率もよかった(リーグ2位の打率.342)し、3人が3人ともバリバリだった。そのあと、掛布とバースは故障に苦しんだしね。

――やはり、日本一に輝いた1985年は、阪神にとって特別なシーズンだったんですね。

八重樫 あの3人が本当に元気だった1985年は、まったく抑えられる気がしなかったな。後にも先にも、こんなに破壊力のある打線はあの年の阪神だけだったような気がする。1985年の「バース、掛布、岡田」という打線は、一時代を象徴する存在なのかもしれないね。

(第43回につづく)