ワールドカップ・敗北の糧(5)
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 2014年6月24日、クイアバ。ブラジルワールドカップの第3戦、日本は強豪コロンビアに1-4で完膚なきまでに打ちのめされている。

そして1勝もできず、大会を去ることになった。

「勝つことができなかったんで、何を言っても説得力がないかもしれないけど......」

 ミックスゾーンに出てきた本田圭佑(ミラン/当時。以下同)は、消え入りそうな声で言った。大会前に「自分たちのサッカーで、ワールドカップ優勝」を公言していたことに触れられると、顔を少し歪めてこう続けた。

「自分は世界一になるのが目標だし、こういうやり方しか知らない。非常にみじめですけど、これが現実。

自分が言ったことに責任はあるし、結果の世界ではあるので批判も出てくるだろうし、検証は必要でしょう。でも、この悔しさを生かすしかない」

 日本はなぜ、一敗地にまみれたのか?

本田圭佑とブラジルW杯敗退。「自分たちのサッカー」が行き着い...の画像はこちら >>
 2010年夏、日本の手綱を任されたのは、イタリア人アルベルト・ザッケローニだった。

 南アフリカワールドカップでベスト16に進出した戦いは賞賛に値した。気力を振り絞った戦いだった。しかし、世界を相手に立ち止まることはできない。

 ザックジャパンは、これ以上ない順風満帆なスタートを切った。

パラグアイ、アルゼンチンという南米の雄を撃破。破竹の戦いを続け、2011年のアジアカップ優勝で早くも戦いの形を作り上げた。

<自分たちが主導権を握って、攻め倒す>

 かつての堅守、カウンター、セットプレーに活路を求めた戦いから、能動的な戦いに転換した。多くの代表選手が欧州の最前線でプレーするようになって、戦力自体が上がっていた。

 本田はロシア・CSKAモスクワでチャンピオンズリーグ(CL)ベスト8進出を決めるゴールを決め、ロシアリーグ優勝の殊勲者にもなって、名門ミランへ移籍。イタリア・インテルに所属していた長友佑都はCLでベスト8に進出し、キャプテンを任されるまでになった。

ドイツ・シャルケにいた内田篤人は、日本人史上最高のCLベスト4に進んだ。

 ブラジルワールドカップのメンバー23人中、欧州組は12人と、史上初めて半数を超えた。日本サッカーは新たなフェーズに入った。大国と比較しても遜色のない戦力を得た。

 攻撃にかかった時は、6、7人が平気でゴール前に迫る。とことんパスをつないで、機動力を生かして攻め崩す。

主力選手たちは、その華麗さに酔っている節があった。

「自分たちのサッカー」

 彼らは口々に唱えるようになった。

 しかし、それは「玉砕」に近い意味を含んでいた。攻撃と守備のバランスは徐々に瓦解。ショートパスの多用で攻撃は単調になり、相手にリズムを読まれやすくなっていた。何より、いったんボールを失うと、裏返されるような状況に陥ったのだ。

◆「みんな圭佑にボールを集めていた」豊田陽平が代表に定着できなかった理由>>

 2013年、コンフェデレーションズカップ。ザックジャパンはイタリアを相手に攻撃に特化した戦いで撃ち合っている。試合内容はスペクタクルだったが、結果は3-4で打ち負けた。ブラジル、メキシコにも敗れ、グループリーグで敗退。3試合で9失点と、攻撃は防御にならず、守備が破綻していた。

 1年後のブラジルワールドカップでも、必然的に「自分たちのサッカー」がノッキングを起こした。

 初戦のコートジボワール戦はそもそもプレスが機能せず、ボールを持って仕掛けられなかった。じりじりした戦いの中で消耗させられ、後半途中から入ってきたエース、ディディエ・ドログバを中心にしたパワープレーにはなす術がなく、立て続けに失点。狂った歯車を戻せずに、1-2で敗れた。続くギリシャ戦はスコアレスドロー。カウンターを狙ってきた相手を警戒したか、攻め崩すだけの力がなかった。

 そしてコロンビア戦、他の試合結果と大量得点での勝利によって、決勝トーナメント進出の望みはわずかに残っていた。

「自力突破はないですが、奇跡を信じています。コロンビアに勝つことに集中して。その先に自分が発言してきたことが叶う可能性はゼロではない。信念を曲げるつもりはないし、それがあるから頑張れる」

 本田は試合前にそう言っていたが、信念は祈りに似たものになっていた。

 コロンビアは、そんな日本に現実を思い知らせた。1軍半の戦力で挑んだ前半は終了間際、岡崎慎司(マインツ)に一発を決められ、1-1で折り返す。そこで、名将ホセ・ペケルマンはエースのハメス・ロドリゲスを投入。濁流が飲み込むような攻撃力で3点を奪い、1-4で勝利を収めた。最後はGKファリド・モンドラゴンを交代で送り出し、ワールドカップ史上最年長選手記録を更新させる余裕があった。

「明日から世界一になる可能性があるのが、サッカーだと思っています。サッカーのある幸せに感謝したい。自分としては、(優勝に向けては)今回と同じスタンスで個々の選手が成長するしかないと」

 本田は最後まで折れずに言った。

 良くも悪くも、「本田の時代」だった。強烈な自我で、届かなかったものを手にする。その先頭に立っていた。しかし代表という集団が、「自分たちのサッカー」に行き着いてしまったことで、過信から戦いの柔軟性を失い、停滞が起こったのだ。その敗退の仕方は、ドイツワールドカップと酷似していた。

 日本サッカーは次の4年間、雌伏の時を過ごすことになるのだ。
(つづく)