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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第25回 森徹・中編 

(前編「ドラゴンズの二冠王は力道山の義兄弟」を読む>>)

 古武士のような「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫る人気シリーズ。東京六大学野球を代表するスラッガーとして1958年に早稲田大から中日ドラゴンズ入りした森徹(もり とおる)さんは、59年に本塁打、打点の二冠王に輝いたほどの主軸打者でありながら、わずか4年で大洋(現・DeNA)に放出されてしまう。

 不可解なトレードの原因とされるのが、61年に就任した濃人渉(のうにん わたる)監督と森さんとの人間関係のもつれだ。その経緯に話が及ぶと、森さんは現代史の独裁者たちの名を挙げながら、当時の出来事を嘆くのだった。 


中日を襲った4番と監督のトラブル。「金正日やフセインが監督になったら...」
1961年、ホームランを打った森徹。この年限りで中日を去った(写真=産経ビジュアル)

* * *

「金正日とか、サダム・フセインとかが監督になったら、ああいうふうになるのかなあ」
「プレーヤーとしては殺されちゃったもんな」
「正日もフセインも、来たら防ぎようがない」

 野球のインタビューにしてはあまりにも強烈な喩(たと)えに、思わず絶句したあとで苦笑するしかなかった。森さんも苦笑していたが、目は真剣だった。つまり、監督が独裁者状態だった、ということだろうか。

「うん。

自分の好きなように人を使う。嫌だったら使わない。ほら、なんつうの? 生理的に合わないってヤツはいるじゃない? なんだか知らないけどやだなあ、というのが。そういうことだったのかもしれない。でも、オレだって別に、みんながみんなに嫌われたわけじゃないよ。

 早稲田のときの恩師、森茂雄監督にはずいぶんと育ててもらったし、中日で最初の監督、天知俊一さんはホントに自分を生かしてくれた。

もう神様に見えたよ。その次の杉下茂さんのときにも活躍できた。それが、代わった途端にガーンと飛ばされちゃった」

 その時代の中日は監督の選手起用にはっきりと色がついていた、という話を聞いたことがある。濃人監督の場合、プロ野球草創期から内野手として活躍していたが、49年から福岡のノンプロ・日鉄二瀬を率いると強豪チームに仕立て上げた。その実績によって60年、中日の二軍監督に就任し、61年に一軍監督に昇格して以降は"九州勢"と言われていた。

 これは強打者の江藤慎一を筆頭に日鉄二瀬で自ら鍛え上げた選手、もしくは九州のノンプロで活躍した選手を重用したことによる。

そのはっきりとした色に反発した主力選手たちが森さん言うところの「反乱軍」で、濃人監督に干され、嫌われ、最終的にトレードで放出された者もいた。森さんもその一人だったと思われるが、何か別のきっかけがあったのだろうか。

「いや、最初は嫌われたわけじゃないんだ。きっかけはあった。まず監督が歩み寄ってきた。それはねえ、まったく人間の感情は微妙だなあと思って、いまだにわからないところがある。

だって、監督は東京のオレの家まで来てね、それも先におふくろに会ってさ、こう言ったんだ。
 
『じつは今度、わたしは中日の監督になったんだけども、お母さん、わたしはね、森君の情熱を買って、ぜひキャプテンになってもらいたい』と頼み込んだんだから。で、オレは『わかりました』とは言ったんだけど、そのあとにこう言っちゃった。『これは大変ありがたい話だけども、オレはあんまりそういうのは好きじゃねえんだ』とね」

 嫌うどころか、濃人監督は森さんの実力とリーダーシップに期待していたようだ。それがなぜ、逆の展開になったのかと問えば、森さん自身、チームの先輩たちを押しのけてキャプテンになるという部分が気がかりで、素直に要請を受けられなかったのだという。

 そこで、チームメイトと会食しながらの話し合いを持ちたい、と提案した上で名古屋へ向かう。

ここまではよかったのだが、会食の日、宿舎にいる森さんを迎えに来た同僚から意外な話を耳にする。

「車の中でね、『森さん、あれは何か企みがあるみたいだよ』と言う。『なんだい?』と聞いたら、『監督曰く、森は気ままな男だから、キャプテンにすれば少しは大人しくなるだろう、と。キャプテンの責任を感じて無茶なことはしなくなるだろうから、ということだった』と言うんだよ。こっちは『とんでもねえことだ。何言ってんだ。

オレを型にはめるつもりか!』っつってね」

 声に怒気がみなぎり、掌(てのひら)を上にした両手が素早く天に跳ね上がった。高校野球では、そのような理由でキャプテンに任命されるケースがあると聞く。プロではどうなのか。

「だから会場着いて、ポーンと態度変えちゃった。『監督、悪いけども、これは断らしてもらう』っつって。それでその晩、名古屋のテレビ局でね、球団代表、監督、キャプテンが来季に懸ける抱負を語る番組というのが生放送であった。もう断る気でいたけど、一度は承諾してるから行かなきゃなんなかった。

 それでアナウンサーに『新キャプテンの森さん』と呼ばれて、『どうでしょう、来年は』と聞かれたから、『ああ、まあまあ、適当にやるよ』と、こう答えたんだよね。で、アナウンサーが『適当にですか? 一生懸命にやるとかは......」と返してきたから、『いやいや、そんな気にならねえ。適当にやるよ』と。それからだよ、ボタンの掛け違いが始まったのは」

 すごすぎて、またもや苦笑するしかない。テレビを見ていた当時の中日ファンの目にはどう映り、どう聞こえたのだろうか。

「それからまた、あとで巻き返しがあった。森が断った、何とかしてまとめなきゃ、と向こうも焦ったんだろうな。今度は『幹部制度をつくりたい』と。オレを含めて4人の選手が幹部で、その大将が森だと。そのときのオレは、どこまでも意固地になることはない、と思って引き受けた。それで別府のキャンプに行って、選手会みたいなもんをやった。

 幹部選手側から首脳陣に対して、こういう希望がありまして、とかね、話し合ったわけよ。そしたら、あとで『森の野郎、選手の分際で生意気なこと言いやがって』とか、そういう声が聞こえてきたんだよ。『なんだい、そんなことだったら制度なんか関係ねえじゃねえか。やめた、こんなもんは』っつって、そこで若いゆえの正義感が出て、反乱につながっちゃった」

 事の真相は、一監督と一選手の確執と言えるレベルではなかった。それにしても、濃人監督はなぜ、森さんと他の選手とで違うことを言ってしまったのだろうか。

「そこはホントに、人間の感情というのは難しいと思うところなんだよ。今考えると、もしかしたら監督は、オレより年上の連中を納得させるために、あえて『キャプテンにすればあいつは大人しくなる』と言ったのかもしれない。監督は真実、森の情熱を買ったのかもしれない。あのとき、オレが会場までタクシーで行ったらどうだったか......」

 濃人監督は真実、森さんに期待していたと信じたい。そうでなければ、選手の自宅まで訪ねて、本人より先に親御さんの承諾を得ようとしないのではないか。

「だからね、あのときに素直に『わかった、濃人さん、オレは命懸けでやるよ』と言っていたら、どうなっていたか。それこそ、強い中日ができていたかもしれない。あの年、優勝したかもしれない。実際、2位だったんだからね。同時にオレも満開を迎えたかもしれない。

 そう考えるとね、さっきは金正日だとかフセインだとか言ったけど、ホントはそうじゃなかったかもしれないんだよ。はっはっは」

 これまでになく表情が柔和になり、笑いも豪快になっていた。61年の中日は、新人投手の権藤博が35勝を挙げる空前絶後の活躍もあり、優勝した巨人にわずか1ゲーム差の2位だった。もしも、森さんが前年までと同様の打撃成績を残していたらチームの順位はどうだったか、と考えずにいられない。

 順調に「強い中日」ができていれば、強引なアマ引き抜きの柳川事件も起こらず、長いプロ・アマの断絶もなかった可能性は小さくない。ある意味では、一選手の個人的な感情が、一球団のチーム構成のみならず日本の球史を大きく変えたのだ。ただ、そのことと、引退後の森さんが「世界的なプロ野球組織を目指した『グローバル・リーグ』に参加しなければ」と考えたことが結びつかない。

「で、最後、監督とはまたオリオンズで会ったわけだ。最初はヘッドコーチだったんだけど、成績不振で監督の戸倉勝城さんが途中で休養した。それで代理監督、濃人渉。もう翌日からオレはベンチだよ。打点もホームランもチームでトップだったのに、シーズン終わるまでベンチよ」

 森さんは62 年から65年まで大洋に在籍し、62年と64年の2位浮上に貢献。球団社長が恩師の森茂雄で、監督が早大先輩の三原脩とあって、張り切ってプレーしていた。66年に東京(現・ロッテ)に移籍したあとも、主に5番を打って活躍していた。が、67年のシーズン半ばに濃人監督と"再会"したために、チーム内に自分の居場所がなくなってしまったのだ。

「何しろ一軍キャンプに連れていかない、オープン戦にも1試合も出さない。それでシーズン入ったら完全に干された。まあ、よくあそこまで徹底して極端な意地悪できるなと。いくらボタンの掛け違いでも、最後はこんなに違っちゃった。ふっ。しょうがないな、まったく」

中日を襲った4番と監督のトラブル。「金正日やフセインが監督になったら...」
濃人監督との確執を振り返る、取材当時の森さん

 そこまで長く、深く、根に持たれていたとは......。濃人監督とすれば、あのときにオレに恥をかかせた、という気持ちが消えなかった、ということか。

「だろうねえ。それでね、まだ夏だったよ、当時の球団代表に『もう辞めさせてくれ』と頼んだ。よその球団に行く気もないし、もう野球やらないから、フリーにしてくれ、と。だから、辞めた年、昭和43(1968)年はシーズンの途中でいなくなったのよ」

 最晩年、わずか7試合に出場した森さんの成績は9打数0安打、2三振。スタメンは一度もなく、守備に就いたのは1試合だけだった。

「ま、今の話は初めてだよ、ボタンの掛け違いの話をしたのは。あれから40年以上経ってね、70になって、やっとこの歳になって、『あの濃人監督も、もしかしたら真実は』って考えられるようになったかな、と思うよ。はっはっは」

 あらためて、文献資料にはない話を聞かせてもらったのだと実感する。68年限りで引退した森さんの通算成績は1177試合に出場して971安打、189本塁打、585打点、56盗塁、打率.251。二度の移籍があったなかでも、入団から10年連続で2ケタ本塁打を記録した実力が光る、正真正銘のスラッガーだった。

(後編につづく>>)