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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第28回 広野功・後編 

(前編「生意気な巨人の堀内に怒り、逆転サヨナラ満塁弾を浴びせた男」を読む>>)

「昭和プロ野球人」の多彩なエピソードを過去のインタビュー素材から発掘し、後世に伝えるシリーズ連載。東京六大学野球のスター選手から中日ドラゴンズに入団した広野功(ひろの いさお)さんは、ルーキーシーズンの1966年8月2日、巨人戦で劇的な逆転サヨナラ満塁ホームランを放つ。

 同じドラフト一期生で、年下ながら生意気な言動を苦々しく思っていた"悪太郎"堀内恒夫から打った会心の一撃だった。ところが、翌67年も19本塁打を打ちながら、そのオフに突然、西鉄へのトレード通告を受けてしまう。後に新聞記者や球団フロント幹部も経験するなど、広野さんは数奇な野球人生を送ることになるのだった。

プロ野球選手から新聞記者になり、球団幹部になった広野功の野球人生
巨人時代、自身2度目の逆転サヨナラ満塁弾を打つ広野。この時は「代打」も付く(写真=産経ビジュアル)

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 1967年オフ、入団してわずか2年でのトレード。しかも広野さんは入団契約の際、「現役引退後も中日グループで面倒を見るからトレードはあり得ない」と約束されていた。若くしてドラゴンズ選手会の副会長も務める立場だったから、通告されたときは血の気が引き、涙があふれ出た。

ファンも納得できず、名古屋駅で〈広野トレード反対〉の署名運動が起きたという。

 しかし結局、西鉄の右腕・田中勉との1対1の交換トレードが成立。田中は前年の66年に23勝を挙げ、完全試合も達成していた。それだけの好投手を出して広野さんを迎え入れる西鉄は、永久欠番とされていた大下弘の背番号3を差し出した。

 移籍1年目、68年の広野さんは開幕4番で始動。同年は92試合の出場で打率.260、9本塁打、35打点に終わったが、翌69年は113試合に出て打率は2割3分台ながら、20本塁打をマークして55打点を挙げた。

自身初のオールスター出場も果たしている。

「すごく調子よかったのに、またそのあとにとんでもない壁がくる。黒い霧事件がね......」

 69年10月8日の新聞報道をきっかけに、八百長騒ぎの"黒い霧事件"が起きた。翌70年にかけて新たな事実が次々に発覚し、球界初の永久追放選手を出すまでになったが、その発端は西鉄の一投手だった。チーム内で八百長に関するさまざまな噂が流れ、広野さん自身、野球に対する気持ちが冷めていった。

「試合中にスタンドから『八百長』と言われる。

打っても『八百長』、三振しても『八百長』。もう情熱が消えかかる、というときに巨人にトレードになったんです」

 西鉄の投手4名が永久追放になり、監督の稲尾和久は巨人監督の川上哲治に「ピッチャーを譲ってほしい」と打診。交換条件として川上が挙げた名前が「広野功」だった。そして1971年シーズンを前に、巨人の投手3名と、広野さんを含む西鉄の野手2名とのトレードが成立する。

「巨人で川上さんに出会って、僕の心が一新されたんです。敵で見ていた川上監督はタヌキオヤジ、クソオヤジだったのが、直接会ってみると、とんでもない大監督でした」

 キャンプ初日、広野さんは川上に呼ばれた。

チーム状況とトレードで獲得した理由、チームでの役割と起用法に関して説明を受けた。「オレはおまえを代打として使う。そのためにどうやれるか、ということを、マンツーマンでコーチつけるから勉強して、技術を身につけてほしい」と川上は言った。

「僕はもう感動しました。そんな監督、いないわけです。普通だったら、がんばれよ、で終わりです。

当時、巨人は6連覇していましたが、毎年勝ち続けるチームの監督はこういう人がなるんだと実感しました」

 意気込んだ広野さんだったが、現実は二軍始動、開幕後もそのままだった。が、くさらずに二軍戦10試合で4本、5本と本塁打を放つと一軍に呼ばれた。代打での移籍後初打席はセンターライナーに終わり、試合にも負けたが、チームのみんなが「惜しかった。ナイスバッティング」と声をかけた。

 しかも試合後、後楽園球場の浴室で風呂に浸かっていると、川上がコーチとともに入ってきて、「今日は勝てると思ったけど......。いいか、広野があんないい当たりしたもんな」と言った。

「効きますよ、これは。なんやろな、この監督と思って。そうやって、もっとがんばらなきゃいかん、と選手に思わすわけですよ」

 しかしその後、5月18日からの北陸遠征でのヤクルト3連戦。富山での第1戦に代打で出た広野さんは凡打に倒れ、石川での第2戦は一度もバットを振れず3球三振。そして20日の第3戦、福井での試合は2対5、巨人が3点ビハインドで迎えた9回裏のことだ。

 1点を返してなお無死満塁の場面で、右の才所俊郎に代わって左の広野さんが起用された。相手投手は右サイドスローの会田照夫だったから、当然の代打起用と思えた。もっとも、左の代打が出てきたところで左投手に交替する手もあるわけだが、続投だった。

「はっきり言って、なめられたわけです。前の日に3球三振ですから。それで行こうとしたら、川上さんが『絶対、バット振るんだぞ』って。初球、外へ構えているのが見えました。そこにシンカーがきてストライク。

 パッと川上さんを見たら、ものすごい怒ってる。何で振らないんだ、バカ野郎って感じで。もう次の球、何でも振ろうと思ったら、また外に構えてるのが見えた。パンと踏み込みにいったら逆球が来たんです、内側へ。瞬間的にパーンと振りました」

 真芯でとらえたライナーがライトスタンドに突き刺さった。それがプロ野球史上唯一の劇弾、自身2本目の逆転サヨナラ満塁本塁打だった。

「また壁の話ですけど、この2本の前にはいくつも壁がありました。慶大受験では家庭的な問題、野球留学を目指せばドラフト、親父の反対という壁があり、自分が望んでないほうに進む。プロに入ってケガしたのも壁で、乗り越えたときに堀内から打てる。

 その後、トレードという壁があって、乗り越えたら"黒い霧"という壁がきて、そこからまたトレードで、今度は道が拓けたと思ったら二軍。這い上がって2本目を打てた。ずっと壁を乗り越えてきたから打てたんですね」

 2本目を打ったあと、広野さんは故障もあって出番が減り、巨人が9連覇を達成した73年オフに金銭トレードで中日に復帰。翌74年、シーズン終盤の巨人戦で1本目と同じく堀内が登板して満塁になったとき、監督の与那嶺要に直訴して代打で出た。

 結果はライトライナーに終わり、「明日から二軍に行きます」と与那嶺に伝え、チームが20年ぶりの優勝を決めたなかで現役引退を決断。実働9年間で通算689試合に出場し、440安打、78本塁打、264打点、打率.239という成績を残した。

 引退後、広野さんは中日、ロッテ、西武でコーチを務めている。黄金期の西武では二軍監督、三軍監督も任され、ロッテでは編成部長、さらに楽天の創設時にも編成部長を務めたのだが、「すべての原点は3年間の新聞記者生活でした」と聞いて僕はハッとした。

 以前に見た文献資料の経歴に、引退後の75年から〈中日スポーツ〉とあったので野球評論家になったと思い込んでいた。しかし実際には中日スポーツに入社したということで、1年目は整理部の校閲から始まり、2年目で編集に入ってアマチュア野球担当の記者。秋には中日の担当記者になり、1年間、記事を書き続けた。

 すると77年オフ、中日は新たに中利夫の監督就任が決まり、チームの体制づくりに際して担当記者として動くことになる。西鉄時代から縁のある稲尾を投手コーチに招聘するなど、移籍で広がった人脈も生かした。その途上で広野さんは監督に請われ、二軍打撃コーチとして現場に戻ったのだという。

「記者は選手の心の中まで見ようと、取材して聞くわけです。話を聞いて、いいところをどうやって吸収するか、何を考えているのか、というとらえ方をする。だからそこで勉強したことが、コーチになるにあたって最高の財産になりました。

 特に、ロッテで落合博満を指導したとき、彼と接点を持って話を聞くにも違和感がなかった。普通は、コーチが選手にいろいろ聞くなんて......という感覚があるけれど、記者として取材する感じでいくと、落合の心にも入っていけたんです」

 中日の投手コーチだった稲尾が監督に就任したロッテで、広野さんが打撃コーチになったのは84年。落合は前年まで3年連続で首位打者のタイトルを獲得し、82年は三冠王に輝き、すでにコーチが事細かに指導するレベルではなかった。

 それでも、上体が崩れるなど修正が必要なときはあり、広野さんはそんなときに落合から聞き出した言葉を生かしつつ、的確なアドバイスを送った。そのアドバイスは翌85年から2年連続、落合が三冠王を獲得したときも続いた。

プロ野球選手から新聞記者になり、球団幹部になった広野功の野球人生
取材当時の広野さん。引退後は新聞記者、コーチ、球団フロント幹部を務めた

 プロ野球選手が現役引退後、記者になった事例はほかにもある。が、新聞社の校閲から始めて記者になり、その経験を生かして現場の指導者、球団の編成トップまで長く務めた方はほかにいないだろう。加えて、2006年から始まったアマチュア選手への指導は、今に至るまで社会人、大学、高校、中学硬式、少年野球と各クラスに広がっている。

 これは広野さんが独自に切り拓いた道、と言っていい。そして、その道は第1回ドラフト、黒い霧事件、巨人V9時代、西武黄金期、球界再編における楽天誕生、学生野球資格回復制度によるアマ指導と、ことごとく球史の節目に絡んできた。

「何か、節目、節目に遭う運命だったのかなと。そのなかで自分自身の節目と言いますか、生きる糧にもなっているのが、2本の逆転サヨナラ満塁ホームランなんです。僕も歳を取りましたが、紆余曲折あって、気持ちがへこむときもあります。そこで逆転していくエネルギーみたいなものを、あの2本からもらったと思ってますし、野球の神様がくれたご褒美だと思ってます」

(2017年8月23日・取材)