野球の定石』を遺した男 後編(全2回)

 甲子園出場なし。だが、その指導力と人間的魅力によって語り継がれる野球指導者がいる。

今からおよそ15年前に49歳で急死した山内政治氏だ。早稲田大卒業後に、母校である滋賀の彦根東、甲西、能登川で監督を歴任。手づくりした独自の指導書『野球の定石』はのちに彼の名を世に広めた。

 山内氏は難病の妻の介護のために野球から離れる選択を強いられるが、その最後の試合を申し込んだのが、宮崎裕也氏(現・彦根総合監督)が率いていた北大津だった。山内氏の生きざまに感銘を受けたという宮崎氏がラストゲームを回顧する。

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【申し込まれたラストゲーム】

宮崎裕也 私は滋賀県立北大津の監督を23年間勤め、現在は私学の彦根総合で指揮を執っています。これまで戦った試合数は公式戦と練習試合を含めると何千という数字になりますが、その時に出会った指導者全員の顔を覚えているかといえば、すでに記憶が薄れて忘れてしまった方も正直います。



 そんななかで、山内政治さんとの縁はわずか1回の練習試合だったにもかかわらず、その日の出来事はいまだ鮮明に私の記憶に残っています。交わした言葉も、彼が見せた表情もまるで昨日のことのように思い出せ、それだけ強烈な印象を受けたのです。

 公式戦でも不思議と当たったことがなく、球場で会っても互いに会釈する程度。それがある日、当時能登川を率いていた山内さんから練習試合の申し込みがきて、しかも勝手ながら自校に来てほしいという。普通はあり得ない話で面食らいはしたものの、彼の噂は何となく伝え聞いていたので、私はその依頼を受けることにしました。

 1試合目を終えたあと、昼食をということで誘われたのが近くの寿司屋。
そこでこの試合が山内さんにとって監督生活最後の試合だと知りました。事情があって、監督を続けられないのだ、と。

 驚いてそんな大事な試合の相手がなぜ私なのかと尋ねたら、以前から私の野球に興味があったという返事。光栄と思うと同時に、彼の胸中を察すると、どう声をかけたらよいのか戸惑うばかりでした。

【苦労を見せないひょうひょうとした男】

 そして今も忘れないのが、山内さんが寿司屋でいきなりビールを飲み出したことです。家では飲めなくて、普段は新幹線通勤をしているので、車中で缶ビールを1本飲むのが唯一の楽しみなんだと言っていました。

 この時、山内さんが私に語ったのは、妻が病気で看病しなければいけないんだと、ただそれだけ。

その病がまさか「化学物質過敏症」という難病とは知らず、私は昼間にビールというのもいかがなものかと思いながら、まあそういうことならと笑って受け流しました。

 のちに聞けば、奥さんがビールのわずかな匂いにも反応し体調を崩してしまうからだそうで、そんな深い事情があったとはまったく気づきませんでした。

 それでもこの日の山内さんは、多大な苦労を背負いながらもそれをとつとつと語るわけでもなく、野球でこんな指導をしているんだと自慢するわけでもない。

 じつに淡々としていて、グラウンドに戻る道すがらも大げさに言えばスキップをするような、ひょうひょうとした姿を見せていました。試合後も感極まって泣いてもいいのに、普段どおり。選手たちはラストゲームだということをまだ知らなかったようですが、そんな姿にも胸を打たれるものがありました。

【知れば知るほど一途に前向き】

 山内さんを目の前にした印象は、凛とした人だなと。のちに彼の身に起きた事実を知れば知るほど、すごい人だなと感じています。

 すべてを抱え込まずもっと人を頼ればいいいいのに、一途に前を向き、しかも苦しいほうの選択を当たり前にした人。たとえ私が手を差し伸べるようなことを口にしても、きっと「僕の問題ですから」とあっさり断られていたでしょう。

 山内さんの奥さんは最後に自死を選んでしまいます。山内さんが(自殺ほう助容疑で)逮捕されたあと、担当検事が「なんであと追いしなかったんだ」という非情な言葉をかけたようですが、確かに私も周りで同じような言葉を耳にしました。でも、それは私なりに理解できると思っています。



 彼はとことんやったから、奥さんと一緒には逝かなかった。中途半端だったらもうラクになりたいと考えたかもしれない。でも、やり尽くしたからもうそれ以上はなかった。彼が逮捕された時、これほど追い詰められていたことを親しいはずの人ですら気づいていませんでした。

 本当にひとりで戦って、愚痴や言い訳すら口にしなかったそうです。私はそれが信じられず、いったいどんな気持ちでいたのだろうと、今でも折に触れて考えることがあります。


「山内政治さんの野球は強烈で忘れられない」 壮絶な人生を送った名将のラストゲーム...宮崎裕也監督(彦根総合)が回顧
早稲田大学時代の山内政治氏/『幻のバイブル』(日刊スポーツ出版社)より

【個性があり変化に富んだ野球】

 山内さんの采配は、つかみどころのない変化に富んだ野球でした。5点とってそれが全部スクイズの時もあれば、スクイズをまったくせずに攻め続けてくる時も。相手によって対応を変え、一辺倒ではない野球は私にとっても興味の的でした。

 今や高校野球はスカウティングの時代で、いかに選手をそろえるかが第一条件になっている。そのせいで各チームに個性がなくなり、どこも同じようなカラーになってしまったと私は感じているのですが、その点、山内さんのチームは個性があった。

 選手の個々の力に頼るのではなく、チームとして仕上げていく指導。個々はもちろんしっかりつくっていくけれど、チームにおける自分の役割を、広い視点で選手に落とし込んでいったのだと思います。

 そして、山内さんが野球を選手に理解させるために活かしていたのが、独自の指導書『野球の定石』です。率いていた能登川では作戦が怖いくらいに徹底されていて、選手が迷わず実践していたのが印象的でした。

 トップダウンで命令したり、やらなかったら使ってもらえない程度の理解だったら作戦に必ず漏れが出るものですが、それがまったくない。この時はこうプレーするんだと指導しながらも、なぜそうするのかといった理由も含めてきちんと野球を教え、その土台になっていたのが『野球の定石』。選手の意見にも耳を傾けながら、選手が納得のいくように導いていったのでしょう。

 山内さんの戦法のなかでも、当時話題になっていたのが「パーフェクトスクイズ」でした。これはスクイズを外されても三塁ランナーは絶対アウトにならないというもので、理屈はわかるのですが、やろうと思ってもそう簡単にはできない。

 だから彼に会ったあの寿司屋で、パーフェクトスクイズについてぜひ教えてくださいと言ったんです。そうしたらにこやかに笑って、「これは墓場まで持って行きます」と。最後まで教えてくれませんでした。

【受け継がれる山内政治のDNA】

 昨今、高校野球では監督の多くが「野球を通じての人間形成」などと指導目的をカッコよく表現しますが、山内さんはそんなコメントはいっさい発していません。

 心が大事だと常々口にしながらも、あくまで野球を追求し、その副産物として物事にどう力を注げば結果が出るのか、ひいては人としてどう生きたらいいのかを選手に自然と伝えていった気がします。

 そんな指導に魅力を感じ、能登川へ入学した選手も少なからずいました。仮に今、彼が生きていたとしても、時代に合わせて野球を教えるようなことはしないでしょう。自分が考える野球を、最後まで貫くだろうと思います。

 思うに、山内さんは選手だけでなく指導者をも育てられる人。私など感覚で野球をしている部分が強く、試合後なんでこうしたんですかとか記者から質問されますが、理論に基づいてというよりは、ここはこうだという自分の勘がすべてです。

 でも山内さんは野球を体系的にまとめ上げているから、きちんとした理由を持っている。若い指導者など、きっといい勉強になるはずです。

 昨秋の県大会で、彦根東を率いる松林(基之)監督が、全得点スクイズで決めて近江を下しました。山内さんが教員として初めて赴任し、1年間コーチをしたのが彦根東。松林君はその時の教え子で、指導者になったあとは山内さんのもっとも近くにいて彼の野球を見てきたまさに生き証人です。松林君の采配を見ながら、山内さんのDNAが見事に入っているなと感じないではいられません。

【名将の指標は甲子園じゃない】

 松林君と言葉を交わす時は、何かにつけて山内さんのことが話題に上がります。亡くなってすぐにさまざまな人の尽力で「偲ぶ会」が開かれましたが、今話していることのひとつが、2回目の「偲ぶ会」を開きたいということです。

 山内さんの生きざまに感銘を受けている人は多く、まずはこの会をきっかけにして今一度親睦を深め、さらに広く山内さんのことを知ってもらえたらというそんな思いがあるからです。

 これは夢物語かもしれませんが、その先に、彼の姿を映画にしたいという思いもあります。野球という視点だけでなく、化学物質過敏症という難病についてもしっかりと取り上げたい。

 彼の人生は病死したからハッピーエンドではなかったと言えるでしょうか。懸命に自分らしく生きようとして、死の間際には、また野球と関われるかもしれないという一筋の光が実際に見えていました。

 私自身、62歳という年齢になり単に野球の指導という枠にとどまらず、人として何か意味のあることをしたい。「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」という言葉がありますが、山内さんの姿から感じることは、時は移り変わっても多々あると思います。

 甲子園で何勝したとか、それが名将のひとつの指標かもしれません。でもそんなんじゃないやろって、そのことを多くの人は知っているはずです。

前編<難病の妻の自殺ほう助で逮捕、教員免職後に急逝...『野球の定石』を遺した知られざる名将・山内政治の信念>を読む

【プロフィール】
山内政治 やまうち・まさはる 
1959年、滋賀県彦根市生まれ。彦根東高から早稲田大に進学。1982年、早稲田大硬式野球部の新人監督を務め、東京六大学野球春季新人戦を優勝、同秋季リーグを優勝などの成績を収める。卒業後、母校を含む滋賀の3校の監督を歴任。2004年に妻・智子が化学物質過敏症を苦に自死し、その際に現場に一緒にいたことから自殺ほう助罪で逮捕される。多くの減刑嘆願署名が提出されるも、懲役2年2カ月・執行猶予3年の有罪判決を受け、教員を免職。2009年に49歳で急逝した。

宮崎裕也 みやざき・ゆうや 
1961年、滋賀県大津市生まれ。彦根総合監督。比叡山高時代には、外野手として3年夏に甲子園出場しベスト8入り。中京大学を卒業後、1994年から北大津高の監督となり、2004年に夏の甲子園出場に導く。北大津では春夏6回の甲子園出場。2017年の異動に伴い、一時野球指導からは離れていたが、2020年から彦根総合の監督に就任。わずか3年で春の甲子園出場を果たした。