仙台でのイーグルスとのシーズン最終戦は、バファローズにとっては負けたら終わりの大一番だった。

 2022年10月2日。

 5対2と3点をリードした最終回、バファローズのマウンドに上がったのは、今シーズン、28セーブを挙げていたクローザーの平野佳寿ではなく、中継ぎの切り札・阿部翔太だった。

オリックス逆転Vの立役者・阿部翔太が歩んだ波乱の野球人生。「...の画像はこちら >>

今季44試合に登板して、防御率0.61の好成績を挙げたオリックス・阿部翔太

 この日が44試合目の登板ながら、防御率は0.61。安定感は抜群だったとはいえ、リーグ優勝がかかった大事な一戦の最終回に、ベテランの守護神ではなく、まもなく30歳になる"オールド・2年目"を送り込む中嶋聡監督のシビアな決断に、思わず唸らされる。それはブルペンにいた阿部も同じだった。

「ブルペンで準備をしていたら、8回が終わった時にベンチから電話がかかってきて、『阿部、行くぞ』と......僕自身、もちろん9回は平野さんだと思っていたので、その言葉を聞いた瞬間、まさかと思って一気に緊張しちゃいましたね。

 思えばあの日、8回に(ジェイコブ・)ワゲスパックが行くとなった時、平野さんが僕のところに来て、『次、阿部ちゃんかもよ』って冗談っぽく囁いたんですよ。

僕は『いやいや、それは平野さんでしょう』と返したんですけど、あとから聞いたら平野さん、次は僕だって知ってたみたいなんですよね」

 シーズン終盤、たしかに平野は調子を崩していた。しかしクローザーとしての実績と揺らぐことのないプライドがあるからこそ、チームにおける最善策を受け容れる──そんなベテランならではの阿部に対する気遣いだったのだろう。平野のさり気ない言葉は、阿部に心の準備をさせるのに十分な重みを持っていた。

逆転優勝の瞬間、球場が光った

 9回のマウンドに立った阿部は、代打の銀次に対していきなりボール球を続けてしまう。それでも阿部は落ち着いていた。

「そもそも先頭バッターというのは難しくて、最初、力んでスプリット、その次の真っすぐを少し引っかけ気味に投げてしまったんです。でも、僕のなかには『ヤバいな』という気持ちはありませんでした。

そこを(キャッチャーの伏見)寅威さんがわかってくれていて、ツーボールからカットボールのサインを出してくれたんです。僕にとってのカットはいつでもストライクをとれる自信がある球種なので、カットを続けて2ー2に追い込んだあたりでは、もうすっかり冷静でした」

 阿部は銀次に対する5球目、外角にストレートを投げてボール。フルカウントとなってから、インコースへ思いっきり腕を振ってストレートを投げ込んだ。

「あのインコースへの真っすぐはイメージどおりでした。詰まらせたいと思って投げて、実際にそうなりましたから......」

 銀次はセカンドへ弱い当たりのゴロを転がして、ワンアウト。阿部の迫力あるピッチングは、守るバファローズを勢いづけた。

ベンチが盛り上がるなか、阿部は1番の小深田大翔を空振り三振、2番の渡邊佳明をレフトフライに打ちとって、ゲームセット──勝利の余韻に浸る間もなく、バファローズの選手たちはホークスの戦いを球場のビジョンで見つめる。そしてホークスがマリーンズに敗れ、バファローズの逆転優勝が決まった。その瞬間、阿部は球場が光ったような気がしたのだという。

「ベンチの前でビジョンに映るZOZOマリンの試合を見ていたんですけど、最後、センターの髙部(瑛斗/マリーンズ)選手がボールを捕った瞬間、目の前の景色がボヤッとしたんです。球場全体が明るくなったというか、光ったんですよね......何だったのかなぁ。その時のことが今でも思い浮かびます。

 昨年も優勝しましたが、僕自身、ケガで何もできていなかったので、やっぱり今年はうれしかったし、優勝した実感があります。胴上げの時ですか? いや、ウチのチームにはデカい人がいっぱいいてるんで胴上げは力のある人にお任せして、僕はセンターに向かって跳びはねてました。ここらあたりなら映るかな、と思って(笑)」

高校3年で捕手から投手に

 阿部が生まれ育ったのはバファローズの本拠地、京セラドームのお膝元でもある大阪市の大正区。1992年生まれの阿部が小学生の頃、ドームでは"近鉄バファローズ"の『いてまえ打線』が猛威を振るっていた。阿部は近鉄のファンクラブに入って、ドームへしばしば足を運んでいたのだという。

「2001年、近鉄がリーグ優勝をした時はすごく盛り上がりました。北川(博敏)さんが代打逆転サヨナラ満塁の優勝を決めるホームランを打った、あの年です。

残念ながらその試合は球場では見ていないんですが、でも1年を通して近鉄の試合は何度も見に行きました。岩隈(久志)さんがエースで、すごくカッコいいなと思っていた印象があります」

 岩隈に憧れた阿部は、小学生の時の軟式野球のチームではピッチャーとキャッチャーを交互にやっていた。しかし中学生になって入った硬式の大正シニアではキャッチャーになり、山形の酒田南高校に進んでからもキャッチャーとしてプレー。高2の夏には甲子園に出場している。阿部が当時をこう振り返った。

「じつは、ずっとピッチャーのほうが好きだったんです。

だって、キャッチャーって褒めてもらえないし、めちゃくちゃ怒られるし、大変なポジションじゃないですか。そうしたら高3になった時、たまたま2学年下に下妻(貴寛/元イーグルス)が入学してきて、あっさりポジションを奪われた(苦笑)。で、ピッチャーになったんです。僕、高3の夏が公式戦での初登板だったんですよ」

 不思議なもので、そうした巡り合わせもあって高校時代にピッチャーへ転向したことが「僕のプロへの道を切り拓いてくれた」のだと阿部は言う。

「もしキャッチャーのままだったら、たぶん大学(成美大/現・福知山公立大)で野球は終わっていたと思います。社会人(日本生命)に進んでからも(十河章浩)監督に『フォアボールは守りのリズムを悪くする、フォアボールを出すくらいなら打たれたほうがいい』ということを叩き込まれました。あれは大きかったと思います。実際、ストライクをとれるようにならないと試合で使ってもらえなかった。だから僕は積極的にバッティングピッチャーを買って出たんです。バッティング練習ではテンポよく、どんどん投げていくなかでストライクが投げられないと話になりません。

 そこで僕はストライクのとり方を覚えたんです。ゾーンをギチギチに狙うのではなく、大きく見る。点で見るんじゃなくて、だいたいこの辺かなと考えて、小っちゃくならないように投げる......そんなイメージで投げていました。もともと自滅するタイプのピッチャーではなかったんですが、社会人に行ってから、コントロールに関してはさらに自信がつきましたね。それもよかったと思うし、もしかしたらキャッチャーが長かったことも幸いしていたのかもしれません。2塁への送球には自信がありましたし、キャッチャーの時のほうが長い距離(ホームから二塁ベース)を投げてしっかりストライクをとってたわけですから(笑)。今でもストライクはいつでもとれると思っています」

28歳にして念願のプロ入り

 阿部が日本生命でプレーしたのは6年──右肩痛に悩まされたり、都市対抗の初戦で先発してノックアウトを喰らったり、プロを目指す心が折れかけたこともあった。それでも阿部が28歳になろうかという2020年の秋、バファローズがドラフト6位で指名する。すでに近鉄ではなくなっていたが、地元の京セラドームを本拠地とする、あのバファローズである。そして28歳の"オールドルーキー"はプロの世界へ飛び込んだ。

 しかしプロ1年目の昨年、チームはリーグ優勝を果たすも、阿部は一軍で4試合目の登板だった5月7日のマリーンズ戦で右肩を痛め、以降、一軍のマウンドで投げることはできなかった。

「去年のCS、日本シリーズはテレビで見ていました。正直、複雑な気持ちでしたね。僕が若い年齢で指名されていたらまた違う気持ちになったのかもしれませんが、28歳でプロ入りして、29歳になるシーズンからのスタートでしたから、正直、悔しい気持ちはありました。CSで戦ったマリーンズの中村奨吾や日本シリーズで対戦したスワローズの山田哲人は同学年ですし、『オレ、こんなところで何してんだ』という......だからこそ今年のCS、日本シリーズでは投げられる幸せを噛み締めたいと思っています」

 阪急、オリックスの流れから言えば、過去、バファローズはブレーブス、ブルーウェーブとして4度の日本一に輝いている。しかし近鉄の流れから考えるとバファローズは過去、一度も日本一になっていない。昨年の日本シリーズでもスワローズに敗れ、"バファローズとしての日本一"はあと一歩のところでまたもお預けとなった。

「近鉄ファンのひとりとして(笑)、当然、そのことは知っています。だからこそ今年、日本一になれば、近鉄ファンの方も喜んでくれるんじゃないかと思います」

 そのためにはCSでホークスを倒し、日本シリーズでヤクルトと戦うことになれば、同学年の山田に加えて、大事な場面であの"村神様"を抑えなければならない。

「僕は小細工できるピッチャーじゃないんで、メチャクチャ腕振って、気合いを入れて、全力で抑えにいくしかありません。勝負球はスプリットになると思うので、どうやって追い込むか......真っすぐをしっかり見せて、2球で追い込んだら、最後は3球勝負。うん、いいと思います」