2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第10回・其田健也(駒澤大―JR東日本)前編

駒澤大の「谷間の世代」其田健也が明かす箱根駅伝。3年時は「先...の画像はこちら >>

2016年の箱根駅伝、駒澤大4年(当時)の其田健也は1区13位で襷を渡した

 今年3月の東京マラソンでは、日本人2位でゴールし、堅実な走りで評価を高めた其田健也(そのた・けんや)。駒澤大時代は、強い世代には挟まれ、「谷間の世代」と言われた世代だが、コツコツと努力を重ね、4年時には主将となり、チームを牽引した。JR東日本入社後は、マラソンで戦うことを念頭にトラックから入り、マラソンに移行後は着実に実績を積み重ねている。「外さない男」と言われる其田は、MGC(マラソングランドチャンピオンシップ・2023年10月15日開催)にどう臨み、パリ五輪の切符を掴もうとしているのだろうか。

 其田は、青森山田高校から駒澤大に進学をしたが、そのきっかけになったのは指導者の"熱さ"だったという。

「最初、どこに進学するのか決めていなかったんですけど、高2の時に大八木(弘明)監督が会いに来てくださって、熱い方だなぁと思ったんです。

そういう熱い指導者に指導してもらいたかったですし、駒澤大が当時、平成の常勝軍団と言われるぐらい強かったので、そういう大学で自分を磨いてみたいと思って、駒澤大に進学を決めました」

 当時の駒澤大には、2学年の上に窪田忍(現九電工)、1学年上に中村匠吾(現富士通)、村山謙太(現旭化成)がおり、全体のレベルが非常に高かった。其田は、自信を持って入学したが、早々にあっさりと鼻をへし折られてしまった。

「高校入学時はトップで入ったので、そこそこやれるという気持ちで入ったんですけど、大学に入るとほぼ下のレベルでした。もう上があまりにも強すぎて、練習メニューについていけなかったですし、1年生なので寮生活でやるべきことが多かったので、1年目は競技で結果を出すということができなかったです」

 それでも其田は、同学年のなかでは抜き出ており、1年目から箱根駅伝のエントリーメンバー16名に入った。区間エントリ―の段階では4区に配置されたが、出走することはなかった。

「4区に名前が出ると、親とか友人から連絡がきたんですけど、変更することがわかっていても言えないので、それがつらかったですね。

その経験があったので、次は絶対に箱根を走りたいと思うようになりました」

 其田は、高校時代は5000mが得意で、大学でもトラックで勝負しようと考えていた。だが、すぐに5000mでは通用しないと思い知らされた。箱根に出るためにも距離を伸ばしてロードにシフトしていくほうが自分には合っているかもしれない。そう思い、1年の終わりにはロードで強くなる決意を固めて2年目、長い距離を走ることに取り組んだ。

「1年目はくすぶっていたんですが、2年目に監督から『スタミナを重点的に鍛えなさい』と言われたんです。練習でも距離を意識して取り組み、5月に仙台ハーフに出ました。

その時、63分19秒で走ることができて、長い距離を走れるきっかけになりました」

 其田の2年目は、部内で激しいレギュラー争いが起きていた。大塚祥平(現九電工)、中谷圭佑(元コモディイイダ)ら力のあるルーキーが入学してきて、部内の勢力図が大きく変化しようとしていたのだ。

「もう上も下も強すぎて、常に緊張感がありましたね。私たちの学年は、『谷間の世代』と言われていたんです。出雲駅伝は6人が出走するんですが、自分たちの学年からはひとりも入らなかった。かなりシビアで、きついですよね。

だから、もう反骨心しかなかったです。すごく悔しくて、下が強いけど、俺らの代もしっかりと走ろうぜと団結していました」

 其田は自らの学年を引っ張り、箱根駅伝では10区にエントリ―された。出雲駅伝、全日本大学駅伝を制した駒澤大は箱根駅伝に勝てば大学史上初の3冠を達成することになる。其田は、その大事な箱根のアンカーに抜擢されたのだ。だが、レースは、駒澤大にとって厳しい展開になった。其田に襷が渡った時には、トップの東洋大と3分以上の差がついていた。

「レース前は3冠がかかったアンカーなので、すごいプレッシャーがありました。なんとしても勝ちたいと思っていたんですが、東洋大との差がけっこうあって......。ゴールした時、中村さんと村山さんが来て、すごく悔しそうな顔をしていましたし、チームメイトもみんな悔しがっていました。ふだん、そんなに悔しそうな表情を見せることがない先輩たちを見るとグっとくるものがあって、泣いてしまいました。この時、本気で3冠と優勝を狙うチームのアンカーを走ったことを実感してもっと強くならないといけない、先輩に恩返しをしないといけないと強く思いましたね」

 3年時、其田は箱根の優勝しか考えていなかった。中村と村山が4年生で最後の箱根になるので、なんともして優勝して卒業してもらいたかった。

その前に立ちはだかったのは東洋大ではなく、ニューカマーの青学大だった。優勝争いを展開したが、其田の走る9区の時には青学大と8分以上の大きな差が開いていた。

「襷をもらった区間で区間賞を獲るのが最低条件だったので、そこは狙って走りました。でも、獲れなかった。区間賞を獲った青学大の藤川(拓也・現中国電力)選手との差を縮めても優勝できたかどうかはわからないですが、チームに勢いをもたらすという意味においても区間賞はしっかりと獲りたかったですね」 

 其田は9区3位、駒澤大は、総合2位に終わり、優勝を果たせなかった。中村、村山というエースがいたチームで優勝を思い描いていたが、果たせなかったことを其田は悔いた。ふたりへの思い入れが深いのには、理由があった。

「1年生の時、私は中村さんと寮で同じ部屋だったんです。中村さんは部屋で常に補強をしていました。誰も見ていないところでひとりで黙々とやっているのを見て、強い選手は誰も見ていないところでしっかりとやっている。そこに影響を受けて、私もやるようになりました」

 村山から学んだことも多かった。

「村山さんは、練習で一番チームを引っ張っていましたし、すごくコミュニケーションを取ってくださるんです。当時の駒澤大は上下関係が厳しく、下の学年は先輩に話しかけづらいんですが、村山さんから気さくに話かけてくれるんです。そういうことがいかに大事なことか学ぶことができました」

 ふたりから多くを学び、競技に対する姿勢を間近に見てきた。だからこそ、なんとしても勝ちたいという気持ちが強かったが、それを実現できないまま終わった。

 大学4年になり、其田は主将になった。最終学年で臨んだ箱根駅伝は、初めて往路区間の1区を任された。

「キャプテンを任されて、監督からの信頼もあったので1区のスターターは素直にうれしかったですね。大八木監督からはレースを作る区間ということで、『任せた』と言われたのですが、プレッシャーがすごくて、かなり緊張していました。スタートの雰囲気は独特でしたし、駅伝の流れを決める区間なので、これまでの区間とは全然プレッシャーのレベルが違いました」

 大八木監督からは青学大の久保田和真(元九電工)をマークしろと言われた。

「久保田選手は、力がある選手。ちらちら見ながら走っていたんですが、ハイペースになってかなりきつかったです。最後まで喰らいついていきたかったんですが、10キロ過ぎから本当にきつくなって、まとめるだけの走りになってしまったので、チームにすごく申し訳ないと思っていました」

 13位で襷を渡したが、トップの青学大とのタイム差は、1分50秒。駒澤大は、それでも盛り返し、総合3位でレースを終えた。

 箱根駅伝を走ることは、その後の其田の陸上人生にどのような影響を与えたのだろうか。

「もともと長い距離を走るのが好きじゃなくて、だから5000mを中心にトラックを走っていたのですが、箱根を走るためにロードにシフトしました。20キロのロードを走るのはきついですけど、我慢すれば記録が伸びるんです。単純ですけど、そこの面白さ、楽しさときつさを覚えたので、そこでのベースと経験が今、マラソンを走るうえで活きているのかなと思います」 

 マラソンのベースを築けたと語る其田だが、それ以上に大きな財産になったのは、大八木監督との4年間だった。

「大八木監督の競技に対する熱心さと厳しい指導のおかげで、競技に監督と同じ熱量で取り組めるようになりました。競技については、『スタミナが重要だから走り込め』とよく言われましたが、周囲に対する感謝の気持ちを忘れないようにと常日頃からおっしゃっていました。走らせてもらうことへの感謝であったり、周囲の支えがあることを忘れてはいけないと言われていたので、それは今でも大切にしています」

後編に続く>>マラソンでは世界との差を痛感「35キロ過ぎから7キロの世界は別次元」