Jリーグ30周年・特別インタビュー
北澤豪が語るJリーグ創世記の思い出(前編)

 Jリーグ開幕の熱い息吹を、最前線で感じたひとりである。

 1993年5月15日に行なわれた記念すべき開幕戦のピッチに、北澤豪は立っている。

 読売クラブからヴェルディ川崎へと名称を変えたチームで、長髪を風になびかせながらダイナミックに疾駆する姿は、日本サッカーの新時代到来にふさわしいものだった。カズこと三浦知良らとともにオフ・ザ・ピッチでも注目された彼は、Jリーグ創成期のアイコンのひとりだったと言っていいだろう。

 記憶の針を30年前にセットして、印象的なゲームを、選手を、トピックを振り返ってもらう。これまで明かされてこなかった意外な事実も飛び出してきた。

◆北澤豪1993年→2023年「今昔フォトギャラリー」(10枚)>>

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北澤豪が語る30年前のJリーグ誕生秘話「骨折していたけど、ス...の画像はこちら >>

ヴェルディ川崎の選手としてJリーグ開幕戦に出場した北澤豪さん

── 1993年5月15日の開幕戦から、もうすぐ30年です。

「覚えていますよ。

僕は後半からの出場でした」

── 1993年は日本代表が2月から活動をしていて、北澤さんは3月下旬の沖縄合宿で左足の中足骨を骨折しました。その影響ですね。

「Jリーグの開幕に間に合わせなきゃ......と必死でした。実際には間に合わなかったですけれど」

── 完治しないまま出場していたんですか?

「折れた指が曲がっちゃうと、どうにもならないので、スパイクの裏に特注で鉄板を入れて。重くて曲がらない鉄ゲタみたいなスパイクを履いていたんですよ」

── そんなことはまったく感じさせなかったですが......。

「Jリーグ開幕という日本サッカーの歴史の1ページに立ち会うか立ち会わないかは、まったく違うだろうと思って。

それで必死に間に合わせたんです。おかげでこうやって、30年後にインタビューを受けることができている。頑張って鉄のスパイクを履いてよかったですよ(笑)」

── 普通に考えたらメンバー外ですね。

「そうでしょうね。メンバー外だったら、TUBEの前田亘輝さんの国家独唱も、あの大きなバルーンが揺れていたのも、川淵三郎チェアマンのスピーチも、生で見ていたのかもしれない。けれど、僕らは国立競技場の裏側でウォーミングアップをしていたから、何も知らなかった。

試合後にスポーツニュースで見て『あっ、こんなことがあったんだ』と気づいたんです」

北澤豪が語る30年前のJリーグ誕生秘話「骨折していたけど、スパイクの裏に特注で鉄板を入れて開幕戦のピッチに立った」

ヴェルディ川崎時代の北澤豪氏

── 記録を辿ると、4日後の第2節からスタメンに名を連ねて、Jリーグ初ゴールも決めました。しかもフル出場している。左足の状態は?

「鉄板の入ったスパイクを履いたままです(笑)。10節ぐらいまでそのスパイクでやっていました」

── 当時は鉄のスパイクの話はしていませんね(笑)。

「ひょっとしたらルールに触れるかもしれないな、というのが心配で。だから、2節で得点できた時は『これで疑われないかな』と思って、うれしいというよりもホッとしたかな」

── リーグ戦では元ブラジル代表MFジーコ、元西ドイツ代表MFリトバルスキーといったW杯プレーヤーと、同じピッチでプレーしていきます。

ポジション的にマッチアップすることも多かったですね。

「彼らがW杯でプレーしているのをテレビで見ていたので、自分にとっては紛れもないアイドルなんですよ。彼らを見て育ってきたから、ボールを奪っていいのかな、思いきり身体をぶつけていいのかな、と思ったりもしました。

 もちろん、激しくいかなきゃいけないわけですけどね。ポジション的に対峙することが多かったので、すごくありがたかったなぁ。彼らのすごさを肌で感じて、それを自分のモノにできたので」

── たとえば、どんなことですか?

「ジーコをマークする時に、自分の横に彼を置いて視野に入れると、すっと一歩下がるんですね。

視野からいなくなった瞬間にはもう、数メートル離れている。簡単に言えばマークの外し方がうまいのでしょうが、当時はそんな動き方を教わっていないんですよ。

 ジーコは当時もう40歳で、試合中に足を引きずったりもしていたから、マッチアップしても絶対に勝てると思うわけです。それなのに、気がついたら10メートルぐらい離れているなんてことがある。いい選手は相手に厳しくマークされるけれど、そのなかでもいいプレーができるのはボールを受ける前の動きで決まっているんだな、と」

── Jリーグのピッチに、世界のトップレベルが持ち込まれていたんですね。

「年齢的に運動量が落ちているとか、足の痛みがあったということで、いい状態でボールを受けることをより強く意識していたのかもしれない。

いずれにしても、ジーコのすごさに触れることができました。対照的に、ずっと動いていたのがリトバルスキーでした」

── 運動量が多いイメージはなかったですが。

「オン・ザ・ボールで輝くドリブラー、というイメージでしょう?」

── まさにそのとおりです。

「違うんですよ。ものすごく体力があって、今で言うインテンシティが高い。僕は運動量が多かったほうだけど、マークするのが大変でしたから。いい選手ほど動くんだなあと。身体も固いし」

── 身体が固いというのもまた、イメージになかったですね。

「ドイツ人はフィジカル的に強靭ですが、リトバルスキーは身体のサイズが大きくなかったから、彼もまた一層強靭なフィジカルを求めたのかもしれないですね。一度バーンと当たっても弾かれちゃうので、バンバーンと2回いくようにしていました。そんな日本人選手はいなかった。強かったですね」

── 1994年途中に名古屋グランパスに加入したストイコビッチとも、何度もマッチアップしました。

「彼は90分間ノーミスでプレーするんですよ。それも1試合だけじゃなく、何試合も。外国人選手はプレーの成功率が高い。それが彼らのクオリティだと理解していましたけど、成功率が100パーセントですから。

 僕はどちらかと言うと南米志向だけど、ヨーロッパの、旧ユーゴスラビアの選手はすごいなと感心させられました。それから、メンタルが強い。何があっても絶対に負けない、という気持ちで向かってくる」

── それは彼のバックボーンが影響しているのかもしれません。

「そうでしょうね。旧ユーゴスラビアという国そのものが、彼の生き方そのものが、戦いと言っていいものだったのでは。その世界観とか人生観が、サッカーに影響していたんだろうと」

── そういう選手たちと、水曜日・土曜日と週2回の日程で試合を重ねていきました。

「Jリーグ開幕の前年からスポーツクラブに入会して、開幕してからは今で言うパーソナルトレーナーをつけて、ウエイトトレーニングに取り組んでいました。そのジムにはプロレスラーの天龍源一郎さんとかが通っていて、専属のトレーナーをつけていたんです」

── Jリーグと並行して日本代表でもプレーしていましたから、アジアや世界というものをより身近に感じて、レベルアップの必要性を痛感していたところも?

「それもありました。開幕当時はヴェルディのクラブハウスが小さくて、筋トレの施設なんかも充実していなかったんです。自分でやっていかないと無理だな、間に合わない、と思っていました」

── その一方では、Jリーガーには華やかなイメージがつきまといました。とりわけ、ヴェルディの選手たちには。

「当時は20代でしたから、華やかな場所に興味はありましたよ。ただ、水曜・土曜と試合があって、アウェーで東京を離れることもあるから、遊んでばかりなんてことは物理的に無理でした。

 出かけるにしても、サッカーに支障が及ばないようなコントロールはしていましたし、Jリーグを知ってもらうための"ロビー活動"でもありました。ひとつの店に長く滞在しないで、どんどん次の店へ行って、いろいろな人に自分たちを知ってもらう。

 華やかな場所に来る流行に敏感な人たちに、サッカーに関心を持ってもらいたかったんです。『プロはプレーするだけでなく、世間の関心を惹きつけるもの大事だよ』と、カズさんがよく話していましたね」

── ロビー活動の翌日は、いつも以上に練習に熱を注いだ、とも聞きます。

「翌日の練習では、ランニングで先頭を走るのが僕らのノルマでした。食事にも気を遣っていました。独身の時には、母に食事を作ってもらったりもしていましたし」

── Jリーグ開幕後の変化と言えば、海外移籍もあげられます。ヴェルディのチームメイトだったカズさんは、1994年夏に世界最高峰と呼ばれていたセリエAのジェノアへ期限付き移籍しました。

「プロリーグができたから、次は外を目指さなくちゃね、と話していました。アメリカW杯への出場をギリギリで逃して、次こそはという意識になっていたから、自分たちの目線を上げて外へ、という。それでまず、カズさんが出ていったんです」

── 北澤さんも海外移籍の可能性を模索した?

「行きたかったですよ。1995年頃かな、ポルトガルのスポルティング・リスボンへ、という話もあって。メディカルチェックの一歩手前ぐらいまで話は進んだけれど、クラブ側からすると『まずはJリーグを軌道に乗せる、成功させる』ことが大事だから『よし、行ってこい』という感じにはなかなかならなくて」

── 1993年の爆発的なブームがあり、1994年はその熱が持続しましたが、3年目の1995年あたりから人気は落ち着きます。というか、ブームからの落差が大きかったですね。

「うん、落ち込んだ時期がありましたね。個人的にはお客さんが何を望んでいるのか、少しわからない時期でもあった。サッカー好きの人は来てくれているけれど、新しい人たちは何を望んでいるのかが読めない、というか」

── そんなタイミングで、1996年に28年ぶりのオリンピック出場を果たします。

「アトランタ五輪に出た彼らは。面白いヤツらでね。前園(真聖)とか城(彰二)とか(川口)能活とか。Jリーグという環境がすでにあるなかで入ってきた彼らこそが、プロ1号みたいな感じかな。最初からプロサッカークラブに入っているので」

── アトランタ五輪でブラジルを破った彼らは、日本代表より自分たちのほうが強い、なんてことを言ったりもしていました。

「そこまで辿り着くには、先輩たちがいろいろな努力を積み重ねてきてくれたからだぞ、と思ったりもしましたよ(苦笑)。でも、Jリーグができたことによって、こういう変化が起こるんだなぁと。その次の世代になると、W杯に出るのが当たり前になるんですから」

── 見てきたものが違うから、価値観も違うのでしょうね。

「その変化が、僕にはとても面白かった。歴史を積み重ねていくのは人で、違った価値観や視点を持った人が出てくることで、新しい時代が作られる。日本サッカーの進化というのを、目の当たりにしていきましたからね」

◆北澤豪・後編>>Jリーグの未来図「10年後もカズさんには現役でプレーしてほしい」


【profile】
北澤豪(きたざわ・つよし)
1968年8月10日生まれ、東京都町田市出身。修徳高から本田技研工業サッカー部を経て1991年に読売クラブへ加入。圧倒的なスタミナを武器に「中盤のダイナモ」としてヴェルディ黄金時代を支える。日本代表58試合3得点。2002年に現役引退後はサッカー解説者を務めるかたわら、サッカーの普及活動にも尽力中。現在は日本サッカー協会参与、フットサル・ビーチサッカー委員長、日本障がい者サッカー連盟会長。