当事者が振り返る2005年の日本シリーズ

【第2戦】ロッテ10-0阪神

阪神:関本賢太郎(3)

(清水氏の証言3:ボビー流・ロッテ「日替わり打線」が爆発  2005年日本シリーズで「俺も、俺も」と乗せられた>>)

 ロッテと阪神が相まみえた2005年の日本シリーズ。結果は4勝0敗とロッテが圧倒して日本一に輝き、4戦の合計スコア「33-4」という言葉がインターネット上で生まれ、多くの野球ファンの間に広まるなど記憶に残る日本シリーズになった。



 同年、それぞれのチームのリーグ優勝に貢献した清水直行氏(元ロッテ)、関本賢太郎氏(元阪神)が、当時の状況や心境をそれぞれの立場で振り返る短期連載。関本氏に聞くエピソードの第3回は、2戦連続で大敗を喫した理由、チームの雰囲気などを聞いた。

阪神・関本賢太郎が思い出したくない「33-4」の日本シリーズ...の画像はこちら >>

【「この日本シリーズについて話すなんて、初めて」】

――関本さんは第1戦では出場機会がありませんでしたが、第2戦では8回裏に藤本敦士さんの代打で打席に立ち、ロッテ先発の渡辺俊介さんと対戦しました。

関本賢太郎(以下:関本) 実は、その打席の記憶がなかったんですよね......。このシリーズ、僕はまったく出場機会がなかったと思っていて。ただ、資料をあらためて見ると、第2戦では代打で出ていて、第3戦と第4戦ではスタメンで出ていたんですよ。

――第1戦の濃霧コールドの話なども伺いましたが、第2戦以降を覚えていなかったということですか?

関本 全体のことを忘れたかったんです(笑)。

先ほど(連載第1回)も言いましたが、記憶から消し去りたいシリーズだったので。今回の取材で、永遠に封印していただろう記憶を掘り起こされているというか、鍵を開けられた感覚なんですよ(笑)。この日本シリーズについて話すなんて、初めてですから。

――そんなシリーズについて、いろいろ聞いてしまいすみません(笑)。第2戦での渡辺さんとの対戦は、代打で1打席のみの対戦でしたがどうでしたか?

関本 ベンチから見ていましたが、スタメンの選手たちが打ちあぐねていたので、どうやって打とうかと......。そんなことを考えながら打席に立ったことを思い出しました。
僕はアンダースローのピッチャーと対戦するのが初めてでしたし、打つのが難しそうなピッチャーだなと。結局タイミングが合わず、ファーストのファウルフライに打ち取られてしまいました。

【いいところを出せなかった2試合】

――阪神は第1戦で1-10、第2戦は0-10と大差で敗れました。どちらも先制点を取られ、中盤から終盤にかけて集中打を浴びてビッグイニングを作られる展開でしたが、2試合を終えてどう感じていましたか?

関本 なんて言うんですかね......。2005年の阪神は投打ともに充実していて、2003年にリーグ優勝した時よりも完成度の高いチームだったと思うんです。どちらかといえばピッチャーのチームではあったのですが、完封負けするような打線ではありませんし、2試合連続で10失点するようなピッチャー陣でもないわけです。

なので、投打ともにいいところを出せないまま、2試合が終わってしまったという感覚でしたね。

――ポイントゲッターの金本知憲さんや今岡真訪さん(当時の登録名は今岡誠)が第1戦、第2戦と無安打に抑えられてしまったことも痛かった?

関本 痛かったですね。赤星憲広さんらが出塁して、金本さんや今岡さんが還すというのが主な得点パターンでしたし、逆にロッテ側とすれば、勢いに乗られたら困る存在でしたでしょうから。阪神としては金本さんや今岡さんを止められ、逆にロッテで乗せたらいけない西岡剛や今江敏晃を乗せてしまいましたよね。特に今江には、第1戦で4安打されて、第2戦でも4安打されましたからね(日本シリーズ新記録となる8打数連続安打)。

――ロッテの勢いに飲み込まれた感覚はありましたか?

関本 飲み込まれたといえばそうなのかもしれませんが、「試合展開をうまく握ることができなかった」という感じでしたね。
第1戦で大敗していましたから、次の試合の序盤はゲームを支配しなければいけないのですが、先頭の西岡にいきなり二塁打を打たれたことをきっかけに先制され、また後手を踏む展開になりました。それで渡辺さんにもいいピッチングをされ、苦しい展開になってしまいました(渡辺は第2戦で完封勝利)。

――阪神は先発の安藤優也さんが6回裏、サブローさんやマット・フランコに本塁打を打たれて降板し、2番手の江草仁貴さんも李承燁(イ・スンヨプ)に本塁打を打たれるなど、ロッテに突きはなされてしまいました。

関本 江草はシリーズ初登板でしたが、ロッテ打線に完全に火がついてしまった状態での登板でしたからね。ベニー(・アグバヤニ)の打席では3回も暴投していましたが、このあたりは流れでこうなってしまったんですよ。試合展開が完全にロッテの流れでしたから。

――大差で連敗してしまった要因を挙げるとすれば?

関本 あらためてになりますけど、リーグ優勝を決めてから日本シリーズを迎えるまで3週間程度の期間がありました。その期間にフェニックス・リーグに参加するなどして調整したとはいえ、シリーズ特有の最高潮の緊張感と、プレーオフで勝ち上がってきたロッテの最高潮の勢いを止めることができなかった。そういう2試合だったかなと。ベンチに居ながら感じていたマリンスタジアム全体の雰囲気は威圧的でしたし、ロッテはどんどん勢いづいていきました。

――第2戦までを終え、首脳陣や選手間でのミーティングなどはありましたか?

関本 第2戦のあとは覚えていないんですけど、甲子園に帰っての初戦(第3戦)の前にはミーティングがあったはずです。誰が何を言ったのかなどは詳しく記憶していませんが......。



 ただ、負けた内容はよくなかったですけど、2003年の時も連敗でスタートしていたこともあってチームに焦りは感じませんでした。いいところを何も出せませんでしたし、JFK(ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之)を投入する勝ちパターンの展開に持ち込めなかった、という試合だったので。

――苦しいスタートとなってしまいましたが、甲子園に戻れば流れが変えられるという気持ちだった?

関本 そう思っていましたよ。すでに話しましたけど、2003年のダイエー(現ソフトバンク)とのシリーズでは福岡ドームで連敗して、甲子園で3連勝して盛り返しましたからね。第3戦目以降にスタメンで出る機会があれば、なんとか勝利に貢献したいと考えていました。

(清水氏の証言4:「藤川球児のフォークも余裕をもって見逃せた」 ロッテが第3戦も大勝できた理由>>)

【プロフィール】
関本賢太郎(せきもと・けんたろう)

1978年8月26日生まれ、奈良県出身。天理高校3年時に夏の甲子園大会に出場。1996年のドラフト2位で阪神タイガースに指名され、4年目の2000年に1軍初出場。2004年には2番打者として定着し、打率.316の高打率を記録した。2007年には804連続守備機会無失策のセ・リーグ新記録を樹立。2010年以降は勝負強さを買われ代打の神様として勝負所で起用される。2015年限りで現役を引退後、解説者などで活躍している。通算1272試合に出場、807安打、48本塁打、312打点。