1992年の猛虎伝~阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:真弓明信(後編)

前編:「岡田彰布の代打交代に真弓明信がとった行動」はこちら>>

 1992年7月初旬、阪神の快進撃を支えていた守護神、田村勤が左ヒジの故障で離脱した。前半戦を2位で折り返し、優勝を目指すうえでは田村に代わる抑えが不可欠。

では、誰を代役に立てるか、むろん決めるのは首脳陣だが、当時、ベテランの真弓明信はコーチに意見を言える存在。投手コーチの大石清に進言した内容を、チーム最年長だった真弓に聞く。

92年以降の阪神低迷に真弓明信は自責の念 亀山と新庄を「ちゃ...の画像はこちら >>

【先発投手が抑えを兼務】

「僕は大石さんに『最後の抑えは野田(浩司)しかいないですよ』って言わせてもらったんです。誰が見ても真っすぐが速いし、フォークがあって三振がとれる。だから抑えとして一番いいんちゃうかと思って。けど、『うーん、考えておくわ』で話は終わりましたね」

 大石の構想は、先発投手が抑えを兼務することだった。先発したあと、3日~4日は空けて、抑えに回すというのが基本の起用法。

実際、7月にはマイクこと仲田幸司が11日の中日戦に先発し、16日のヤクルト戦で9回に登板、セーブを挙げている。まだ投手分業制が確立されていない時代、エースが抑えも兼任していた起用法に近いものだろうか。

「でも、昭和の時代にもう抑えはいましたからね。85年に日本一になった時は、山和さん(山本和行)と中西(清起)とふたりで抑えをやってて、9月に山和さんがアキレス腱切ったあと、中西がひとりで頑張った。そうやって、抑えは抑えで決めてたんですよ。だけど大石さん、昔のやり方を知っていたからですかね。

ひとりに決めなかった。それにしてもマイクはね......。
 
 たしかに、マイクは85年の時も2年目で先発の一角に入って、調子はよかったんです。ただ、突如乱れるから。92年も14勝したけど、軸にはなりにくい。ところが、大石さんがものすごく買っていて、抑えでも使うことになったみたい。
絶対、向かないと思ってたし、熊本に行った時に最後に打たれたんじゃなかったかな。『何でマイクなん?』って思いましたよ」

 8月29日、熊本藤崎台県営球場での大洋(現・DeNA)戦。3対3の同点で迎えた9回裏、一死一、二塁の場面で仲田が登板した。ひとつアウトを取ったが、次打者・高木豊に四球を与えて二死満塁。続く堀江賢治にフルカウントとし、最後はレフト前に打たれてサヨナラ負けとなった。仲田はこの日が3度目の救援登板だったが、それまでに10試合以上、ブルペンで待機していた。

【今も悔やむ幻のホームラン】

 新たな抑えを固定せず、不安を残したままシーズン終盤を迎えた9月。「あの年、本当に惜しかったな......。八木のホームランもね」と真弓が言う試合がある。同11日、甲子園でのヤクルト戦。3対3で迎えた9回裏に八木裕の2ランが飛び出してサヨナラ勝ちと思いきや、ヤクルト側が「打球はフェンスのラバーに当たったあと、スタンドに入った」と抗議した。

 一度は平光清塁審が「本塁打」とジャッジしたが、審判団が協議した結果、判定を訂正。エンタイトル二塁打として、「二死二、三塁から試合を再開する」と阪神側に伝えた。

当然、阪神側は怒り、訂正は「承服できない」として中村勝広監督が審判団と折衝。その後、"誤審"を認めた平光塁審がベンチにまで入ってきたため、真弓は思わず、面と向かって口を開いていた。

「その時、監督はね『もうええ。あんまり言うと......』ってなってたけど、僕が一番年上やったから言った。『平光さん、あかんで。今まで、覆したことあんのかい? こんなんホームラン言っといて、いやホームランじゃない二塁打だって、そんなもん、言い訳もできへんで。

ホームランならホームランで終わったらええやんか! 誰も文句言わへんがな』って」

 審判への抗議は監督だけに認められ、真弓は本来その立場にない。だが、選手を代表して率直な気持ちをぶつけた。それほど1勝と1敗の差が大きい時期になっていたからだが、37分間中断のあと、サヨナラ弾は幻となって試合再開。結局、延長15回で引き分け、試合時間は史上最長の6時間26分に及んだ。首位ヤクルトを僅差で追いかけていただけに勝ちたかった。

 もっとも、ヤクルトは9月に入って負けが込み、5日の大洋戦から18日の巨人戦まで9連敗。逆に阪神は9日の広島戦から19日の大洋戦まで7連勝(いずれも11日の引き分けをはさむ)。13日に首位に立ち、ヤクルトと入れ替わりで2位の巨人に3ゲーム差をつけた。残り15試合でマジック点灯も見え、マスコミに対して「優勝」を口にする選手も出始めていた。

「僕もね、優勝するんじゃないかなと思ってましたよ。『強いな』という感じじゃなかったけど。しかも、勢いがあるっていう感じでもないんですよね。勢いってね、点とって勝たないと、なかなか感じられないんですよ。そこは85年に勝った時と違ってましたね」

 7連勝の後、17泊18日の長期ロードに出た途端、眼下の巨人、ヤクルトに対して4連敗。1敗目は先発の仲田が初回5失点でKOされ、4敗目はその前日にも中継ぎで投げた仲田が2対2の9回裏に登板、サヨナラ打を浴びた。新たな抑えをつくらない"しわ寄せ"がきたのか、この敗戦で首位から転落。若い野手たちにプレッシャーがかかり始めていたといわれる。

「だいたい、残り15試合で3ゲーム差をつけて走っているようなチームは、よそのチームより強いっていう自負があるわけでしょ? それが自信になって、プレッシャーを跳ね返すということがあるんだけど、開幕からそこまで戦っている間に、チームが変わってるんですよね。とくに投手陣は先発が後ろに回ったり、抑えが入れ代わり立ち代わりだったり。

 攻撃陣は目立って活躍した選手がほとんどいないんですよ。それでも優勝争いするまでになったのはピッチャーがよかったからであって、そこが変わったから最後に勝てなくなったと思う。ただ、プロ野球の選手がね、若いから経験なくてプレッシャーかかるって、理由にならないんですよ。毎日、試合してるんですから、野手は」

【フロント、何してんねん!】

 長期ロードの13試合を3勝10敗と大きく負け越し、チームは優勝を逃した。「抑えを固定しないツケが最後に回ってきた」と言う真弓だが、この年ブレイクした亀山努、新庄剛志を中心とする若手への視線は厳しい。たとえ実質1年目でも、レギュラーで出ている以上、プレッシャーで実力を出せなかったというのは言い訳にしかならないと。

「それと、優勝争いして最後に逆転されたにしても、勝ったヤクルトとは2ゲーム差。ならば次の年はいいはずなんだけど、何で悪いんや......っていう話で。当然、よかったところはわかっておかないといけないし、弱いところは補強していく。その補強の仕方がね、もうめちゃくちゃなんです。オフに野田を出してね」

 投手陣はよかったが、打てなかったことが敗因。そこで球団は92年オフ、同年8勝を挙げた野田をオリックスに放出し、ベテラン強打者の松永浩美を獲得した。攻撃陣の補強は必要としても、先発の柱になり得る野田を出す方針が、真弓には理解できなかった。

 実際、翌93年の野田は17勝を挙げて最多勝に輝く。一方、松永は故障離脱した影響で80試合の出場に留まり、打率.294、8本塁打、31打点。阪神は4位に転落した。しかも松永は93年オフ、FAでダイエー(現・ソフトバンク)に移籍する。史上初のFA権行使による移籍だったが、結果的にトレードは大失敗に終わった。

「もう『フロント、何してんねん!』って言ってましたから。そもそも91年に(高橋)慶彦が来た時も半分落ち目やったし、連れてきてどないすんねん......って思いましたよ(笑)。慶彦には悪いけど。あの頃、本当に下手やった、フロント」

 補強がうまくいかなかっただけではない。92年は台頭した亀山、新庄が打線を引っ張ったところもあっただけに、ふたりがもう少し順調に成長してくれたら、という思いも真弓にはある。

「92年のあと、阪神(の好調)が続かなかったのは、亀山と新庄のせいかもしれないですよ。いや真面目な話、彼らは不安定やったから。亀山はケガが多かったり、新庄は唐突に『野球辞めます』って言ったり......。でも、それは僕らのせいかもしれない。若い時にちゃんと教育しとかなかったから。『私生活からちゃんとしとけよ』ってアドバイスはしましたけどね」

 真弓自身は、93年以降も代打を中心に活躍。42歳の95年まで現役を続け、23年間で通算1888安打、292本塁打、886打点という成績を残した。引退後は2000年から04年まで近鉄のコーチを務め、09年から11年まで阪神監督。指導者としてもタイガースの歴史に名を残した真弓にとって、92年はどう位置づけられるのか。

「僕はいちばん年上だったこともあって、コーチにいろいろ言ったり、若い人に助言したりしたところからすると、その後の何年間も含めて、ものすごく勉強になったんじゃないかなと。それにしても92年に優勝していたら、阪神の歴史は変わっていたでしょうね。僕はそう思います」

(=敬称略)

真弓明信(まゆみ・あきのぶ)/1953年7月12日、福岡県出身。柳川商から社会人野球の電電九州に進み、72年のドラフトで西鉄ライオンズに3位指名され入団。 78年に遊撃手のレギュラーとなり、オールスターに初選出され、ベストナインにも選ばれた。その年のオフのトレードで阪神に移籍。79年から1番・ショートに定着して、外野手にコンバートされた85年は不動の1番打者として球団初の日本一に貢献。94年には代打の切り札として活躍。シーズン30打点の日本記録を樹立した。95年に現役を引退。引退後は解説者、近鉄でコーチを歴任後、09年から3年間、阪神の監督を務めた