「PLAYBACK WBC」Memories of Glory
昨年3月、第5回WBCで栗山英樹監督率いる侍ジャパンは、大谷翔平、ダルビッシュ有、山本由伸らの活躍もあり、1次ラウンド初戦の中国戦から決勝のアメリカ戦まで負けなしの全勝で3大会ぶり3度目の世界一を果たした。日本を熱狂と感動の渦に巻き込んだWBC制覇から1年、選手たちはまもなく始まるシーズンに向けて調整を行なっているが、スポルティーバでは昨年WBC期間中に配信された侍ジャパンの記事を再公開。
かかる、といえば競馬用語で、競走馬が興奮のあまりにやたらと前へ行きたがって騎手の制御が効かなくなる状態をいう。WBCの初戦、先発を託された大谷翔平がこんなふうに"かかって"いるのを久しぶりに見た。
彼が「特別」だと何度も表現した、思い入れたっぷりの大舞台、WBC----その試合前、大谷は誰よりも早くベンチを駆け出し、マウンドへと向かった......いや、向かってしまった。まだスタメンの野手が全員、ベンチに座っていたというのに、おそらく監督同士のメンバー交換が思ったよりも長くて待ちきれなくなったのだろう。ベンチに戻る栗山英樹監督が、早々にマウンドへ向かう大谷を見て、「早いよ」と苦笑いを浮かべている。
【制御の効かないストレート】
ふと思い出したのは、テトラポッドだった。
大谷が小学生の時、当時、彼が所属していた水沢リトルリーグの春合宿が福島県の相馬で行なわれた。誰よりも張りきっていた大谷は、行くなと言われていた海へ遊びに出かけて、テトラポッドをポンポンと飛んでいるうちに、失敗してジャッボーンと海に落ちた。当時、岩手県の水沢リトルリーグで事務局長を務めていた浅利昭治さんがこう話す。
「翔平はヒョロッとした子で、背もみんなより少し大きいくらいでした。小学校に軟式のスポーツ少年団があるのに、ひとりで硬式のリトルリーグに来るなんて、勇気ある子だなと思っていました。足が速くて、肩が強くて、マイペースで無口で、そのくせわんぱくでね。
野球少年だったあの日の大谷も、きっと"かかって"いたのだろう。張りきって海へ飛び出して、テトラポッドを飛んで、ジャッボーンと落ちた。しかし、メジャーリーガーとなった今の大谷は、WBCという「特別な」マウンドに張り切り、"かかって"マウンドへ飛び出しても、海には落ちない。
その理由は、試合後の栗山監督が話した「状態はよくなかった。よくないなかでもああやってまとめていけるのは、修羅場をくぐりながら前へ進んできたから」という言葉が物語っている。大谷は、よくないなかでどうピッチングをまとめたのか。
立ち上がりから、ストレートが暴れていた。引っかけたり抜けたりして、制御が効かない。そんな思うに任せない状況を、スライダーが救う。
そうやってアウトを積み重ねながら、キャッチャーの甲斐拓也のサインに何度も首を振って、ストレートとスライダーを投げ分けた。やがてストレートの精度も上がっていく。状態がよくないなかでも、その日にいい球種を探し出して、大谷は試合をつくってきた。そういう修羅場を、メジャーのマウンドで何度もくぐり抜けてきたのだ。
【日本に勝利をもたらした2人の大谷翔平】
大谷自身が試合後のお立ち台で「序盤から重たいゲームだった」という、あと一本が出ない試合展開のなか、それでも安心感をもたらす大谷の力強いピッチングが続いた。ヒット1本を打たれただけの、中国打線を圧倒する49球。4回をゼロに抑えて2番手の戸郷翔征にバトンを渡した大谷のピッチングを、栗山監督はこう評した。
「アメリカから来て、登板間隔も空いている。非情に難しい状況であることは間違いない。とくに、こういうプレッシャーがかかるなかで、二刀流でいく。
打つほうでも、大谷は4回を投げきった直後にあわやホームランかという2点タイムリーツーベースを左中間へ放って、3点差とした。バッターの大谷が戸郷に余裕を与えたのだ。栗山監督が「翔平には『二刀流はチームを勝たせるためにある』と伝えてきた」と語っていたとおり、ピッチャーとバッター、2人の大谷が日本代表に大事な初勝利をもたらした。
試合後、お立ち台に上がった大谷は、ホームランを2本放った3日前の強化試合のあと、「まだまだ声援が足りないので、もっともっと大きな声援を」とファンを煽った時の言葉を振られて、こう返した。
「へへ......ホントにこれだけ夜遅くまで、最後まで残っていただいて感謝してますし、ただ、まだまだ足りないんで、明日、もっともっと大きな声援で、よろしくお願いします」
そう言った大谷は、ジャッボーンと海へ落ちた日を彷彿させる、そんな"わんぱくな"顔をしていた。