大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから~小柳宜久(前編)

 大阪桐蔭が春夏連覇を達成した2012年当時の3年生に、同級生のひとりである小柳宜久について尋ねると、かなりの確率である場面のことを挙げてくる。

自称「大阪桐蔭で一番下手だった」男の唯一のエピソード 5年先...の画像はこちら >>

【同級生が語る唯一のエピソード】

 高校1年の冬、普段なら張り詰めた空気が流れる練習グラウンドに、軽やかな声を響かせたのが小柳だった。

「しょうく~ん!」

 この呼びかけに軽く手を上げて「おう、ノブ!」と気さくに返したのは、プロ3年目のシーズンを終え、母校のグラウンドを訪れていた中田翔(当時日本ハム/現・中日)だった。

広島県出身のふたりが中学の硬式野球チーム『鯉城シニア』の先輩・後輩の関係であることは同級生たちも知っていた。

 ただ普段のグラウンドで一切目立つことのなかった小柳が、5年先輩で、しかもあの中田に対して「しょうくん」とは......みんな呆気にとられたこのやりとりは、小柳の唯一のエピソードとして同級生たちの記憶に深く残っている。つまり小柳は、野球で話題になることのない選手だった。

「同級生は25人いたんですけど、そのなかで間違いなく僕が一番下手でした。同級生だけでなく、僕らが3年になった時の3学年で考えても、おそらく一番下手だったと思います」

 もちろん、大阪桐蔭のレベルでの話ではあるが、それでも力不足は明らかだった。そもそも、そんな男がどうして大阪桐蔭へ進んできたのか。

率直な疑問をぶつけると、再び中田との関わりにつながっていく。

 ふたりは子どもの頃から近所に住み、「しょうくん」「ノブ」と呼び合う、5歳違いの幼馴染だった。

「中田さんが小学生、中学生の時、僕の父が少年野球チームのコーチをしていたんです。それで夜になると、家の近くの公園で中田さんと父が練習をしていて、僕もついていっていたんです」

 小学生当時の小柳は、父がつくったソフトボールチームでプレーを楽しみながら、5年の夏には"スーパー1年生"として一躍全国の高校野球ファンにその名を轟かせた中田の初甲子園も観戦。この時の大阪桐蔭には、秋のドラフトでともに1位指名を受けてプロに進む辻内崇伸、平田良介も在籍。屈指のスケールを誇ったチームは、広島の野球少年の心を鷲づかみにした。

 中学生となり鯉城シニアで硬式野球を始めると、順調に成長。3年になるとエースで5番、主将を務めるなどチームの中心選手として活躍。ただ、小柳に当時の力量を振り返ってもらうと、「球速はマックスで125キロぐらい。スカウトが来てくれたのも県内の学校ひとつだけで、今になって思えばショボかったですね」

 しかし、当時はそんなことなど1ミリも思っていなかった。

「レベルの高いところやれば、僕の力をもっと引き上げてもらえるんじゃないかという期待も込みで、大阪桐蔭でもやれる......。そっちの思いのほうが強かった。

そこに圧倒的な憧れ感。中田さんも進んだ大阪桐蔭で、とにかくやりたかったんです」

【関西と体育会系のノリに馴染めず】

 進学先を考えるなかでは、2008年のセンバツで優勝した沖縄尚学や、コンスタントに甲子園出場を重ねていた鳴門工業といった学校にも興味を持ったが、最終的に大阪桐蔭への憧れが上回った。

 その思いは通じ、2010年春に大阪桐蔭へ入学。本人の熱意に加え、中田が期待どおりの成長を遂げたことで、鯉城シニアと大阪桐蔭との間に生まれた信頼関係があと押ししたこともあったのだろう。

 しかし希望に胸を膨らませ迎えた練習初日、淡い期待は一瞬にして吹き飛んだ。先輩たちの投げるボールが違った。先輩たちだけでない、同級生たちのボールも違った。

同級生には藤浪晋太郎、澤田圭佑といったプロに進んだ投手だけでなく、今も社会人で現役を続けている大型左腕の平尾奎太、中学時代に天理シニアで全国制覇を達成した左腕の山口聖也ら、実力、実績を備えた面々がズラリ揃っていた。高校生活の第一歩を踏み出したその日に、思い描いた青写真を修正せざるを得ない現実を突きつけられた。

 ただ、小柳が高校生活を振り返った時、本人を悩ませたのは実力の問題だけではなかった。

 寮で寝食をともにした多くの同級生とうまく付き合えなかった。決定的な何かがあったわけではない。中学時代は主将を務め、学校でも生徒会の活動に勤しんだ。

表立って目立つタイプではないが、主張すべきことは主張し、高いコミュニケーション能力を備えていた。しかし、高校時代の小柳はうまく自分を出せなかった。

「とくに最初の頃ですね。向こうがちょっとふざけたつもりで言ってきた言葉や行動が気に障ったり、逆に僕の言葉の発し方や言葉選びに向こうがイラッとしたり。関西と体育会系のノリに馴染めなかったのと、当時の僕はバリバリの広島弁でしたから。向こうからしたら、ずっとキレているような感じだったみたいです。

それに、僕はもともといじられキャラではないですし......。うまくいかなかったですね」

 1、2年の頃は、何もかもうまくいかず、同級生と馴染めなかった。だから......と、中田がグラウンドを訪れた時の話につながった。

「野球も人間関係もうまくいってない時に、中田さんが来たんです。あの時の僕としたら『マウントを取れる!』となって、みんなの前で思いきり『しょうくーん』って呼びました。意図的でした」

 しかし、周囲の目が小柳に向いたのは一瞬。その後の状況は、何も変わらなかった。毎日練習グラウンドに立ちながら、晴れない気分のなか、ネガティブな思いが交錯した。ほかの学校に進んでいればどうだったか。野球部を辞めたらどうなるのか。学校も辞めないといけないのか......。

 多少打ち解けていた一部の同級生に弱音は吐けない。「しんどいわ......」とこぼせたのは、寮生が親との面会、外食を許される2カ月に一度の時間だけ。

 すると我が子の窮状を察したのだろう。2年になると、土日を利用して両親が広島から練習や試合を見に来るようになった。直接話すことはできないため、遠目から眺めているだけだったが、そのためだけに広島から来てくれる両親の姿を見るたび、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

【カラオケボックスで突然の涙】

 2年秋の大会が終わると野手への転向を申し出て、外野と三塁の練習をするようになった。だからといって、何かが変わるわけではない。そのなかでチームは、2012年に甲子園春夏連覇を達成。球史に残る偉業をやってのけたチームのなかで、ますます居場所を見つけられずにいた。

「あの頃の気持ちは、正直にいうと、センバツの時は甲子園が長引けば練習する期間が短くなるので『勝ってくれ』と。逆に、夏は負けたら早く夏休みになるから......みんなには申し訳ないですけど、僕はそんな気持ちでした」

 そう語る小柳だが、実際には夏の大阪大会の時はデータ班として各球場で相手チームのビデオを撮り、甲子園期間中もメンバーが練習している間、次戦で対戦の可能性があるチームの試合映像を見て分析。仕事には前向きに取り組んでいた。

「やっていくと面白い部分があって、苦ではなかったです。どこまで成果があったのかはわかりませんが、西谷(浩一)監督が『データ班のおかげで』と言ってくれていたのは覚えています。あと、甲子園では試合前のシートノックにメンバー外の3年生が手伝いとして入れてもらい、夏のグラウンドに立てた。あれは素直にうれしかったです。大阪桐蔭でやってきてよかったと思えた一瞬でした」

 高校時代の3年間で楽しかった思い出は何かと聞くと、しばらく考えた小柳が口にしたのは、引退後のささやかなひと時だった。

「夏が終わってからも、ほとんどみんな大学や社会人で野球を続けるので、3年生も練習するんですけど、休みをとるのは自由で外出もOK。それで平尾とカラオケに行ったんです。平尾とはクラスが同じで仲もよかったほうだったので、何かのタイミングで『行こう!』となって。ただ、夜の9時には寮に帰らないといけなくて、バスも1時間に1本程度。全然ゆっくりできなかったんですけど、歌い始めて何曲かしたら突然涙が出てきて。ほんと突然で、自分でもびっくりしたんですけど、たぶん『これが普通の高校生の生活か......』と思って泣けてきたんですよね。自分なりにいろいろと堪えて、抑えていた感情もあったのかもしれないですね。あのカラオケボックスのことはよく覚えています」

 高校を卒業後、時間が経つなかでチームメイトへの感情も、母校への思いも変わっていった。

「高校時代は自意識過剰で、みんなのなかに入っていけない部分がありました。自分がもうちょっと勇気を出して輪のなかに入っていれば、みんなとの関係性も変わっていたと思います。あの時はそれができなかったんですよね。でも、思うようにはいかなかったですけど、あとになれば大阪桐蔭での3年間は自分が成長するために、本当に大きな時間だったと思います。野球でも人間関係でもめちゃめちゃしんどかったですけど、そこを経験できたことが今の自分の土台となっているのは間違いありません」

 前職に就いていた際、大阪のお客さんから「子どもが大阪桐蔭行きを考えている。卒業生から見てどんな学校か」と尋ねられたことがあった。これに小柳は「学校の雰囲気もいいですし、すばらしい学校ですよ」と答えたという。

「まったくの本心です。ただ、『僕の場合は、野球でめちゃくちゃ苦労しましたけど』とつけ加えておきました(笑)。高校時代を振り返ったら、自分なりに3年間、よくやったなと思います」

 小柳なりのいくつもの壁を越え、元大阪桐蔭の春夏連覇を経験したチームの一員として力を発揮するようになるのは、もうしばらくしてからのことだった。

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