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【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.4

高橋尚子さん(中編)

 陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。五輪の大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。

 そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回は2000年シドニー五輪で金メダルを獲得し、国民栄誉賞を受賞した他、世界記録の更新など数々の金字塔を打ち立てた「Qちゃん」こと高橋尚子さん。全3回のインタビュー中編は、シドニー五輪の激闘、その後の周囲の喧騒を振り返ってもらった。

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【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶

【Qちゃん、明日は好きなように走ってこい】

 2000年9月に開催されたシドニー五輪、高橋尚子はリラックスした状態で決戦の日を迎えようとしていた。

「現地に行くまで毎日、体が重いなかで練習を積み、ずっときつい状態が続くんですが、レース前の1週間は調整期間になるんです。徐々に体が軽くなって、しかも、きつい練習をしなくていいのでラッキーだと思っていました。このままいけばレースでは42.195kmをしっかりコントロールできる。その自信はありましたね」

 調整は順調に進み、レース前日、小出義雄監督の部屋に呼ばれた。レースプランを告げられるのかと思ったが、こう言われた。

「Qちゃん、明日は好きなように走ってこい。ただ、出し惜しみだけはするな。俺は20kmと30kmにいるからな」

 高橋は「出し惜しみ?」と思いながらも、その言葉には引っかかりを覚えた。

 当日のスタート前も特に緊張することなく、控室では中央に座し、周囲の選手を見渡していた。

そうしたのはある経験からだ。実業団入社1年目の1995年、高橋は国際千葉駅伝に出場した。海外各国の代表はもちろん、日本代表の選手もいて、非常にレベルの高い大会だった。そんななか、格下である千葉県選抜の一員だった高橋は、他の選手の邪魔にならないように控室の隅で待機していたのだが、その時、知り合いの友人にこう言われた。

「Qちゃん、そんな端っこで縮こまっているようじゃ、走る前に負けているよ」

 その時は実績もなく、「いやいや」と思ったが、今回、それを思い出した。

「一番真ん中に座り、全体を見渡しました(笑)。『あの人はもう負けているな』などと客観的に見られるほど余裕がありました。たぶん、周囲の人は私を見て、あの人は余裕があるなと見ていたと思います」

【30km地点にいるはずの小出監督の姿がなかった理由】

 レースはスタートから順調に進んだものの、中盤までに給水を二度取りそこねた。

「想像以上にレースがスムーズに動いていたので、(給水所を)見落としてしまったんです。17.5kmでゼネラル(主催者が用意する水)を取れなかった時には、山口(衛里)さん(天満屋)が渡してくれました。(同じ日本代表とはいえ)レースではライバルなのに、私に水を渡してくれたことに感動しました。前を行く市橋(有里)さん(住友VISA)も取っていなかったので、このうれしさを前にも届けようと思い、ペースを上げて渡しにいったら、そのままペースが下がらなくなってしまいました(笑)。

 本当はラストに向けて力を溜めてと考えていたのですが、この時、監督の『出し惜しみするな』という言葉がふと頭に浮かんだんです。

最後を考えて集団で行くよりも、今、ここで前に行けるだけの力があるのであれば、出し惜しみせずに前に出て、自分のレースにしてしまおう。このまま行っちゃえと切り替えました」

 そうして17.5km地点で最初の仕掛けを行なうと、集団は徐々に小さくなっていった。20km地点では小出監督が待っており、高橋にこう声をかけた。

「(テグラ・)ロルーペがいないぞ!」

 世界記録保持者のロルーペ(ケニア)は、高橋が最も警戒していた選手だった。ロルーペがいないことはわかったが、後ろに誰がついているのかも教えてほしかった。小出監督は30km地点でも待っているはずなので、そこで後方の状況を教えてもらおうと考えた。ところが、30km地点に小出監督の姿はなかった。

「ありえないですよね(苦笑)。20kmでロルーペ選手がいないとわかった瞬間、監督は勝ったと思い、勝手に30km地点に行くのをやめて、ビールを飲みながらゴール地点に向かったそうなんです。私は走っているからわからないですよね。たったふたつのレース前の決めごとなのに(笑)」

 その30kmを過ぎてからは、デッドヒートを繰り広げていたリディア・シモン(ルーマニア)に対してスパートをかけるタイミングの見極めに入った。

「スパートは、相手がちょっと落ちていて、なおかつ、自分は残りの距離を行けるという自信と脚の余力の3つが重ならないとゴーサインを出せない。

その瞬間を見逃してはいけないので、頭をクリアにさせるためにも、まず30kmでサングラスを外して小出監督に渡そうと思っていたんですけど......。そうしたら、ちょうど反対車線の車道に父がいたので、ラッキーと思って投げました」

 その後、34km地点で一気に前に出た。

「五感を研ぎ澄ましてシモン選手の呼吸音や足音を確認しながら、前に出るタイミングを考えていました。ロングスパートは一発で決めるのが自分のモットーで、仕掛けて、相手についてこられると失敗なんです。失敗したスパートは100%のパワーのうち30%くらい消費してしまいますし、精神的なショックも大きい。だから、相手の状態を見極めてスパートをかけたんですが、私が前に出てから3秒くらい反応がなく、ついてきませんでした。『よし、行けるところまで引き離そう』と思いました」

【国民栄誉賞を受賞し、「Qちゃんフィーバー」に】

高橋尚子のシドニー五輪金メダル「すごく楽しかった42kmでした」の裏にあった「怖くて、長かった最後の200m」
シドニー五輪後には国民栄誉賞を受賞。それまで以上の大きな注目を集めた photo by Sano Miki , hair&make-up by Komori Maki(337inc.) 
 

 そこからは先頭を一度も譲らずにスタジアムへ。トップで入ってきた高橋を、8万人の大観衆が歓声と拍手で迎えた。

「スタジアムのゲート内で一瞬、静寂が訪れるんです。そこからトラックに入ってきた時の大歓声は本当に感動して、今も忘れられないですね。『この歓声は私のものだ』と思って走りました。ところが、声援のトーンがちょっと変わって、ふと大型ビジョンを見たら、後ろにシモン選手が迫っていたんです。これは歓声じゃない。

悲鳴だと(苦笑)。あと200m頑張らなければと思ったんですけど、全然力が入らなくて。すごくきつくて、怖くて、長い200mでした」

 レース直後のインタビューでは「すごく楽しい42kmでした」と振り返ったが、最後の最後は苦しんだ。ガッツポーズをしながら金メダルのゴールテープを切った8秒後、シモンが続いた。

「ゴールした時は、小出監督、トレーナー、栄養士さん、みんなの仕事のすばらしさを金メダルで証明できたことでホッとしました。同時に、もう五輪が終わってしまうんだという寂しさもあり、ふたつの感情が交差していました」

 念願の金メダルを獲ったが、なかなか実感は湧いてこなかった。その日は取材などをこなし、深夜2時過ぎに部屋に戻り、小出監督とカップ麺1個を分けて食べ、そのまま夢の中に落ちていった。

「五輪で金メダルを獲ったら世界がバラ色になるのかなと思っていましたが、いつも通りに朝練に出ると、誰も集合していなくて。でも、せっかくなのでそのまま走ったのですが、景色は何も変わらない。でも、変わらなくていい。夢の世界に行ってしまいそうなところを現実に引き戻してくれて、私にとってはすごくいい朝練になりました」

 だが、その頃、日本はとんでもない騒ぎになっていた。陸上では64年ぶりとなる五輪の金メダルである。

しかも、人気の高いマラソンだ。高橋はそれまで以上の人気者になり、街で声をかけられる機会も格段に増えた。

 応援してくれる人が増えること自体は非常にうれしかった。だが、たとえば街中でひとりにサインをしてしまうと、そこから行列になり、途中で断るのも申し訳なかった。その後も10月30日に国民栄誉賞を受賞するなど、「Qちゃんフィーバー」が続いた。

「注目されて応援されるのはすごくうれしかったんです。でも、私自身は弱い選手ですし、練習をやらないと弱い自分に戻ってしまうので、すぐに練習したいと思っていました。その時、監督に『五輪に出て金メダルを獲った選手がテレビに出たりして活躍しないと、これから陸上選手になりたいという子がいなくなるぞ。金メダルを獲ったらこんな華やかな世界を経験できる。その世界を見せることが五輪で金メダルを獲った選手の責任だし、役割でもある』と言われたんです。確かにそれはそうだけど、でも、私は練習がしたいという葛藤がしばらく続きました」

【金メダルの次は世界記録を出したい】

 高橋が、小出監督の言っていたことを本当に実感、理解できたのは、引退してからだった。

「今の私の(スポーツキャスターや普及活動での)立場があるのは、その時、そういう行動を取っていたからです。

小出監督はランナー高橋尚子だけではなく、引退後の長い人生を考えてくださって、そういう助言をしてくれたんだと、今、しみじみ実感しています」

 4年後のアテネ五輪は、すぐには考えられなかった。五輪で金メダルを獲得し、小出監督に恩返しをするという大きな目標を達成できたからだ。

 ただ、高橋にはもうひとつ大きな目標があった。

「マラソンで世界記録を出したいと、ずっと思っていたんです」

 金メダリストは、五輪2連覇ではなく、世界記録に挑戦するために動き出した。

(つづく。文中敬称略)

高橋尚子(たかはし・なおこ)/1972年生まれ、岐阜市出身。県岐阜商業高校から大阪学院大学に進み、卒業後に小出義雄監督率いるリクルートに入社。1997年に積水化学へ移り、二度目のマラソンとなる1998年名古屋国際女子マラソンで日本記録を更新して初優勝。同年のアジア大会ではスタート直後から独走し、自身の持つ日本記録を4分以上も更新。2000年シドニー五輪で金メダルを獲得し、国民栄誉賞を受賞。2001年ベルリンマラソンで2時間19分46秒の世界記録(当時)を樹立。2008年に引退。現在はスポーツキャスター、市民マラソンのゲストなどの普及活動に精力的に取り組んでいる。

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