杉本和陽六段インタビュー前編
ヒューリック杯第96期棋聖戦五番勝負の第3局が、6月30日に千葉県木更津市の竜宮城ホテルスパ三日月で行なわれた。昨年までに5連覇を成し遂げ、史上最年少の21歳11カ月で永世称号を手にした藤井聡太棋聖は、持ち味とする終盤の驚異的な粘りを発揮してストレート勝ちし、連覇の記録を6に伸ばした。
今年の棋聖戦で藤井棋聖に挑んだのは、33歳にして初のタイトル戦を迎えた杉本和陽(すぎもと・かずお)六段だ。将棋連盟の会長も務めた故・米長邦雄永世棋聖の「最後の弟子」と言われる杉本六段に、これまでの歩みや初のタイトル戦を振り返ってもらった。
【父の影響で将棋に出会い、12歳で小学生名人に】
杉本六段は、1991年に東京都大田区で生まれた。アマチュア二段昇格を目指していた父の影響で6歳の時に将棋と出会い、近所の将棋道場の門を叩いた。
そこで「将棋の知識や戦法を学ぶ楽しさを知った」杉本少年は、わずか1年で初段に昇格。道場では向かうところ敵なしの強さを身につけると、その後は父とともに横浜の将棋道場に通うことに。そこで実力に磨きをかけ、11歳で倉敷王将戦、12歳だった2003年には小学生将棋名人戦で優勝を手にした。
「名人戦の様子がテレビで放映されて、小学校の同級生に『プロになったら応援するね』と声をかけてもらったことは覚えています。でも、当時の私は、とにかく人見知りが激しくて学校でも静かに過ごしている生徒でしたから、学内で大々的に注目を集めたり、祝福されるような状況ではなかったと思います」
当時をそう振り返る杉本六段は、小学生名人の称号を手にした同年の9月に、棋士の養成機関にあたる奨励会に入会した。その同時期に、将棋連盟の会長(当時)として小学生名人戦を訪れていた米長氏の「遊び心と気品を備えた振る舞い」に惹かれ、同氏に手紙で思いを伝え、弟子入りを志願。本人の技術だけでなく、両親とも面接し、家庭環境なども含めて厳しく見極められる選考を経て、弟子として認められることになった。
【「東大合格と遜色ないレベル」の三段リーグで苦戦】
そして、都内の中高一貫校に通いながら奨励会にも通い、高校在学中の17歳の時に三段に昇格を果たす。まさに順風満帆。杉本少年の眼前には明るい未来が広がっているように思えた。
「大学受験に挑む同級生を傍目に、私は順調に三段リーグを勝ち上がり、18歳で四段に昇格するつもりでいました。その後も棋士として華々しく活躍し、多くの名声と収入を得る――そんなバラ色の未来を思い描いていましたが......」
当時の三段リーグでは、現在のA級棋士である佐々木勇気八段、増田康宏八段らとの熾烈な戦いを強いられた。年に2度開催される三段リーグは、18局の総当たり戦で行なわれる。成績の上位2人が四段に昇格することを認められ、棋士としてのキャリアを歩み始めることとなるが、その難易度の高さは、大学受験の最高峰に位置する東京大学合格に例えられることもある。
杉本六段の師匠である米長永世棋聖も、生前に「私の3人の兄たちは頭が悪いから東大に行った。私は頭が良いから将棋の棋士になった」と語り、大いに話題を呼んだ。
「棋士と東大、両者は異なるジャンルのものですし、単純な比較はできません。ただ、わずかな差で人生が変わってしまう三段リーグの厳しさを考えると、師匠の言葉はあながち間違っていないのかなという気はしますし、相応に壮絶な場所だと思います」
当初のプランでは、三段リーグを颯爽と勝ち上がり、プロ棋士として活躍するつもりだったそうだが、わずかに昇格に及ばずに涙を飲むシーズンが続いた。
苦戦が続くなかで、杉本六段は飛車を定位置の右翼に残す『居飛車』から、左翼に展開させる『振り飛車』に戦法を変更。「野球で言うと、右打者から左打者に転向するくらいの違いはある」とのことだが、職人気質で研究熱心な杉本の性格に馴染み、実力を高めていった。
しかし2012年には「昇格を果たせぬ弟子を気にかけていた」という、師匠の米長永世棋聖が永眠。その後も夢を諦めきれずに挑み続けた戦いに終止符が打たれたのは、25歳の時。
【将棋との向き合い方に変化「誰かと比べるのをやめました」】
「私が三段リーグを戦っていた当時は『10代のうちに四段に昇格できるかどうか』が、その後の活躍を図る指針になっていて、年齢の遅い昇格に劣等感を味わうこともありました」
四段昇格後の苦労をそう語る杉本六段は、対局を続けるなかで、ある思いが芽生えたという。
「小学生の頃から他人と比較される世界で生きてきたので、気づいた時には何かを比較するような価値観が刷り込まれていました、それが、ふとした時に『誰かと比べたり、負けた時の自分を否定し続けていたら、先々まで頑張ることができないのでは?』と考えるようになって。奨励会に在籍する若手のみなさんと将棋を楽しんだり、自分の戦法を研究する時間をこれまでよりも大切にするよう心がけるようにしたんです」
そうして棋士として9年のキャリアを重ね、自分なりの将棋との向き合い方を見出して五段まで昇格すると、2024年5月から始まった棋聖戦の予選を勝ち上がり、挑戦者決定戦では永瀬拓矢九段を下し、初のタイトル挑戦権を獲得。藤井棋聖に挑むことになった。
師匠の米長氏が永世資格を持つタイトル戦には、同氏の形見である和服を着用して挑んだ。
「対局に向けて右も左も分からずに準備を進めていた時に、たまたま師匠の奥様に結果のご報告に伺う機会がありまして。その時に譲っていただきました。棋聖戦は師匠が初めて獲得し、永世称号も取得されているタイトルなので、思い入れも強い。生前の師匠が抱いていた気持ちを背負って、対局に臨みました」
【藤井棋聖との対局は「将棋を指している実感が得られた」】
棋聖戦は5番勝負で行なわれ、各棋士の持ち時間は4時間と短めに設定されている。クラスに関係なく挑戦できることもあり、若手棋士が頭角を現すことも多く、米長永世棋聖や藤井棋聖なども、棋聖戦で初のタイトルを手にしてきた。
「対局の前日は、魂を抜かれるくらい写真を撮られましたし、緊張していたこともあって、将棋のことはあまり考えられませんでした」
そうして迎えた、初のタイトル戦の第1局(6月3日・栃木県日光市 日光金谷ホテル)。序盤こそ「盤上の駒を移動させるだけで、震えるほど緊張を感じた」そうだが、徐々に落ち着きを取り戻す。
「5つくらいあるメニューのなかから、前日に選ばせていただきました。第1局では藤井さんも同じおやつを頼まれていたので、少しうれしかったですね。(午前、午後と)2回もかぶるケースは多くありませんから」
おやつを味わえるくらい緊張がほぐれた杉本六段は、「時間が過ぎるのは意外に早かった」と振り返る第1局で、中盤まで藤井棋聖と伯仲の戦いを見せる。
「盤越しに見た藤井さんの純粋に将棋に向き合う姿、難しい局面になればなるほど目を輝かせる姿が印象に残りました。私もその境地にたどり着けるように頑張らなければいけない、と感じましたね」
対局は、先手の杉本六段が得意の三間飛車を志向。2九玉型のミレニアム対藤井棋聖の居飛車穴熊という対抗形の戦いに。杉本六段自身も「中盤までは互角ぐらいの勝負ができていた、と信じたい」と振り返ったように、その後は一進一退の攻防が続き、大激戦に発展した。
「藤井棋聖は『歩』の使い方が本当に上手で、駒が使いづらい状況が生まれてしまった」
杉本六段は玉頭戦に持ち込むと、終盤の追い込みに定評のある藤井棋聖も攻勢に出る。
「『将棋界で最も堅い』と言われている藤井さんの穴熊を崩さなければならない対局は、本当に大変でした。ですが、終盤ギリギリの攻防は、私が将棋を指していることを最も実感できる局面でもありますし、一番好きな瞬間かもしれません」
手応えをそう語った杉本六段だが、対局の終盤で藤井棋聖に一気に畳みかけられて力及ばず。「『振り飛車』に対抗する形の将棋の面白さが出た」という対局で、勝利を掴むことはできなかった。
不利とされる後手で挑んだ第2局(6月18日・兵庫県洲本市 ホテルニューアワジ)は「チャンスらしいチャンスを作れず」に苦杯を舐め、後のない状況で6月30日の第3局に臨んだ。
「タイトル戦独特の白熱した終盤の競り合いを楽しんでいただけたらうれしい」と意気込んだ対局では、序盤から中飛車で勝負に出るも、両者の睨み合いが続く展開に。杉本六段は終盤まで藤井棋聖に食い下がったが、藤井棋聖が84手目に出した△2七銀で投了という結果に。杉本六段は「終盤の勝負どころで決断しきれなかった」と悔やんだ。
「はっきりとした課題が見えた。今後の棋士人生に生かしていきたい」
師匠の米長永世棋聖が、初タイトルを手にしたのは30歳の時。1973年の棋聖戦だった。かつて「遅咲き」と呼ばれた師匠の姿を追うように、飛躍を遂げられるか。杉本六段の新たな挑戦が始まる。
(後編:【将棋】米長邦雄永世棋聖の「最後の弟子」杉本和陽六段が語る、勝負に厳しかった師匠から受け継いだもの>>)
●杉本和陽(すぎもと・かずお)
1991年9月1日生まれ、東京都出身。米長邦雄永世棋聖門下。2003年9月に奨励会入会。