野口みずき、アテネ五輪前の月間走行距離は驚異の1370km「...の画像はこちら >>

【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.7

野口みずきさん(前編)

 陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。オリンピックの大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。

 そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回は2004年アテネ五輪で日本人女子2大会連続となる金メダルを獲得し、さらに翌2005年には日本記録を更新するなど、数々の金字塔を打ち立てた野口みずきさん。身長150㎝と小柄な体ながら、そのダイナミックなストライド走法で世界を席巻した。

 全3回のインタビュー前編は、実業団2年目で退社した無名時代から、マラソン初挑戦、世界陸上パリ大会での銀メダル、そしてアテネ五輪直前までを振り返ってもらった。

【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶

【「チーム・ハローワーク」となった社会人2年目】

「実業団に入った時は、世界とか五輪はまったく見えていなかったです」

 野口みずきはワコール入社当時(1997年4月)をそう振り返る。同期は6人で実力的には下から2番目。体重も増え気味で、パッとしない成績が続いた。そうしたなか1998年10月、会社と藤田信之監督の方針が噛み合わず、野口は監督に帯同する形で退社した。

「いきなり無職になり、『チーム・ハローワークだね』って言っていました(苦笑)。退職金を少しいただいたので、それを元手に廣瀬(永和)コーチが住んでいた団地に真木(和)先輩(1992年バルセロナ五輪・10000ⅿ、1996年アトランタ五輪・マラソンに出場)と入り、マネージャーさんが栄養の知識があったのでそれを教えてもらって食材を買い、練習の合間に食事をつくって、また練習に行く、みたいな生活をしていました。

 ワコール(の寮)ではおいしい食事が出てきて、しかも、お給料をいただきながら自分の好きな陸上ができることが、どれだけ恵まれていたことなのかを実感しました。いかに競技に向き合うべきか。次の受け入れ先が見つかるまでの4カ月間は、陸上を続けていくうえで、すごく大事な時間でした」

 1999年2月、野口は藤田監督らとともにグローバリーに入社するが、その直前に走った犬山ハーフマラソンでは1時間10分16秒で優勝。

その後もハーフへの出場を続け、10月の世界ハーフマラソン選手権で銀メダル(1時間09分12秒)、11月の名古屋ハーフマラソンで優勝(1時間08分30秒)するなど、年間6本のハーフを走った。

「ワコールで2年目の時、奄美大島で行なわれた関西実業団の合宿で初めて30km以上走ったんです。監督から『おまえはリズムがよく、後半になっても落ちないところを見ると、長い距離に向いているんじゃないか』と言われ、犬山マラソンに出させていただいたんです。そんなに練習をしていなかったんですけど、まだ無名でしたし、とりあえず行けるところまで行ってみようと思ったら、意外と走れたという感じでした」

 トラックの練習もしていたが、モチベーションは圧倒的にロードにあった。

「トラックは苦手でした。あの(10000ⅿの)25周という数字を見るのも嫌ですし、同じところをグルグル回るのも好きではなかったんです。レースもポケットされる(※ほかの選手に囲まれて前に出られなくなること)のが怖かったですね。でも、ロードになると、みんなに『走りが全然違うね』って言われましたし、監督やコーチがちょっとびっくりしてくれるのもうれしかったです。世界ハーフで銀メダルを取れたことで、私はロード向きなんだなって確信しました」

【満を持して迎えた待望の初マラソン】

 ロードで才能を開花させ、「ハーフの女王」と称された野口は、2000年7月、札幌国際ハーフで、日本女子マラソンのエースだった高橋尚子(積水化学)と初めて対決。結果は、シドニー五輪(同年9月)に向けた調整の一環として出場した高橋が優勝し、野口は3位だった。

「(高橋さんは)最初は憧れというか雲の上のような存在でした。レースの時も速くて、やっぱりそうだよな、強いなって叩きのめされたんです。でも、シドニー五輪での金メダルを見て、私も高橋さんに近づきたい、オリンピックの歓声をひとり占めしたいと思うようになったんです」

 ハーフで1時間08分台を出すなど安定して走れており、そのまま積み重ねていけば、マラソンでもいいタイムが出るのではないかと野口自身も周囲も期待した。

 当初は、2001年8月の世界陸上エドモントン大会出場を目指し、その代表選考レースである前年の大阪国際女子マラソン(1月)か名古屋国際女子マラソン(3月)で初マラソンを走る予定だったが、故障のため出場を見送った。

 マラソンでなくても世界陸上には出たいと考えた野口は、2001年の日本選手権(6月)・10000mにエントリーすると、大雨のなか、藤田監督も驚く3位に入り、代表に選出。本大会では13位に終わったが、マラソンに出場した土佐礼子や渋井陽子(ともに三井住友海上)の走りを見て、「マラソンにチャレンジしたい」思いをさらに強くした。

 迎えた待望の初マラソンは、2002年3月の名古屋国際女子マラソン。野口は事前に中国の昆明などで合宿を行ない、満を持してレースに臨むと、25km過ぎからロングスパートを決め、2時間25分35秒で優勝を飾った。

「優勝はしたけど、記録的にはちょっと微妙でほろ苦い初マラソンでした。レース展開は20kmまではエンジンがかかっていない感じで、25kmを越えてくるとラクになるというか、ペースが上がる感じでした。"30kmの壁"も感じず、後半になればなるほどリズムがよくなったので、これが私のマラソンのレース運びになっていきました」

 マラソン2戦目となった翌2003年1月の大阪国際女子は2時間21分18秒の好タイムで優勝。同年8月の世界陸上パリ大会への出場が決まった。その世界陸上は、アテネ五輪の日本代表選考レースでもあり、日本人トップかつメダル獲得なら代表内定だった。

「それ(アテネ五輪代表の内定)は逃すまいと思っていました」

 野口はアテネ五輪のマラソン代表の座を獲得するため、万全の準備をした。

「以前に一緒に走った海外の選手、特にケニアとかエチオピアの選手たちの腰高で滑らかなストライドで走る姿が頭の中にあって、私もあんな感じで走りたいと練習では常に彼女たちの走りをイメージして走っていたんですが、(初マラソンの)名古屋で優勝できて、それを上回るペースで走ろうと挑んだ大阪国際でもびっくりするタイムで優勝できました。

 次はパリ(世界陸上)なので、標高の高いスイスのサンモリッツで合宿を行なったのですが、そこでは大阪国際の前に合宿を行なった昆明での練習のタイムを上回ろう、つねにベストを出そう、以前の私を超えようというのをテーマに練習していました」

【世界陸上はヌデレバに敗れて悔しい銀メダル】

 2003年8月の世界陸上パリ大会は、それまで野口が経験したことがないような激烈なレースになった。序盤は周囲の選手にマークされ、体をぶつけられることもあった。レースが動いたのは30km過ぎ、前世界記録保持者のキャサリン・ヌデレバ(ケニア)が前に出た。

「ヌデレバ選手が切れ味の鋭いスパートで前に出た時、ついていかなきゃって思ったんですが、なかなか体が動かなくて......。(ラストの)競技場に入る時も、観客の『うわー!』っていうすごい歓声が響き渡ったんですけど、これはヌデレバ選手へのものだなって思って、すごく悔しかったですね」

 野口はヌデレバに次いで2位に終わったが、日本人トップで銀メダルを獲得し、見事、アテネ五輪のマラソン代表の座を射止めた。

「それからは練習日誌に『金を取る。そのためにトレーニングする』と書いていました」

 高橋尚子と同じ金メダルの道を歩むため、野口は攻めのトレーニングを継続した。アテネ五輪のレース時、野口は筋肉質の肉体を駆使し、躍動感のある走りを実現していたが、それはこの時期にしっかりとフィジカルトレーニングを行なったからだ。

「サンモリッツに合宿に行くとトレーニングセンターがあって、そこで海外の選手はみんなフィジカルトレーニングをしていました。やらない選手もいましたが、本当に強い選手はかなりみっちり筋トレをしているんです。私もワコールの時代から筋トレはしていたんですが、その必要性を再確認し、体作りをしていました」

 走って鍛えて、東京のナショナルトレーニングセンターで測定をすると、体脂肪率は7%しかなかった。廣瀬コーチからは「競走馬みたいな足だな」と言われた。

「1カ月間で1370kmくらい走って、筋トレもして、体脂肪率を落としても体調はよく、生理もなくならなかったです。

それまで生理が来なかったのは、ワコールに入って1年目の1カ月だけだったんですが、たぶんホームシックでメンタルの影響が大きかったと思います。丈夫な体に産んでくれた両親に感謝でした」

【直前合宿で起きた"家出"事件】

 オリンピック直前の合宿は、世界陸上同様にサンモリッツで行なった。練習ではほとんど(設定タイムを)外さなかったが、いくらいいペースで走っても、メンタル面の強化のためもあり、廣瀬コーチは100パーセント上出来だと褒めることはあまりなかった。その狙いは後に野口も理解したことだが、トレーナーを含めて3人だけの合宿だったので、当時は少しだけ褒めてほしいと不満を感じた。

 そんなある日、野口は"家出"をした。携帯電話に何度も着信があったが、無視してミラノに行こうと考えた。だが、バスの乗り方がわからず、ホテルの裏山に身を潜めた。やがて、お腹が減り、ホテルに戻るとひどく怒られたが、「これじゃ金メダルは遠い」と自分を戒め、翌日から再び真剣に練習に取り組んだ。

「スイスでは順調に合宿を終えることができました。ただ、涼しいスイスから暑いギリシャに直接入るのは体的にしんどいので、暑さに慣れるためにドイツに寄ったんです。でも、暑くないし、ホテルの空調が効きすぎていて、寒くて風邪を引いたんです」

 アテネでの記者会見は、風邪の影響でガラガラ声になり、知り合いのジャーナリストに「大丈夫?」と心配されるほどだった。

「喉が痛いだけで熱はなかったので、なんとかなるかなと。

コースも7月に一度、試走していたので、不安はなかったです。ちょうど、25km地点にカルフール(スーパーマーケット)の看板があって、それがすごく印象的だったんですけど、そこが実際のレースでも大きなポイントになるとは、その時は思ってもいなかったですね」

 アテネ五輪のため宿舎に入った野口は、いつもそうしているように、ベッドサイドに音楽を流すスピーカーを置き、洗面所にはスキンケア用品を並べた。快適になった自分の部屋で決戦の時を待っていた。

(つづく。文中敬称略)

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野口みずき(のぐち・みずき)/1978年生まれ、三重県出身。宇治山田商業高校から1997年にワコールに入社。その後はグローバリー、シスメックスに所属。2002年に初マラソンとなる名古屋国際女子マラソンで優勝、翌年の大阪国際女子マラソンも制し、2003年世界陸上パリ大会で銀メダルを獲得。そして2004年アテネ五輪では、前大会の高橋尚子さんに続く日本人女子2大会連続の金メダルに輝く。2005年ベルリンマラソンでは2時間19分12秒の日本新記録で優勝。2008年北京五輪もマラソン代表に選出されるが、大会直前のケガで出場を辞退。その後は故障との戦いに苦しむも、2013年世界陸上モスクワ大会では代表の座に返り咲いた。

2016年に現役を引退し、現在はメディアやイベントへの出演ほか、岩谷産業陸上競技部のアドバイザーなどを務める。

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