ダイヤの原石の記憶~プロ野球選手のアマチュア時代
第5回 達孝太(日本ハム)前編

 昨年10月のプロ初勝利から、今季も順調に白星を重ね、ここまで(8月10日現在)6勝1敗、防御率1.60の好成績をあげ、オールスターにも選出された日本ハム・達孝太。そんなプロ4年目の快進撃にも驚きはない。

「あの逹なら......」と思わせるのは、天理高(奈良)時代からその一端に触れてきたからだ。

【高校野球】全国制覇まであと2つでの登板回避 高校時代の達孝...の画像はこちら >>

【好きな言葉はサイ・ヤング賞】

 達の高校時代の最速は、3年夏を終えたあとの9月のブルペンで記録した149キロ。そもそも本人は150キロにこだわりを持っていたわけではなく、常に関心は父に頼んで購入してもらった『ラプソード』で測定していた回転数や回転軸、リリースポイントなどをチェックしながら磨いていた球質だった。

 右肩上がりの成長力と、それを支える思考力。「球界を代表する投手になる」「世界で戦う投手になる」と確信したのは、取材を通して、達の内面に触れたからだ。

 好きな言葉に「サイ・ヤング賞」と答えた時があった。これまでそんな高校生に出会ったことはなく、達と接していると単なるビッグマウスではないということはすぐにわかった。

 本気でその舞台を目指し、朝から晩までピッチングについて考え続けた先に出たものだった。目標とする場所にたどり着くための過程と位置づけた高校の3年間。多くの野球ファンの記憶に残っているのは、達が高校3年の時に出場した選抜だろう。

 初戦の宮崎商戦では、10奪三振で1失点の完投勝利。2回戦は健大高崎(群馬)を相手に2安打、8奪三振で完封した。つづく準々決勝の仙台育英(宮城)戦は8回を投げて8安打、8四死球、6奪三振で3失点。

本来の出来ではなかったが、チームを勝利に導いた。あとになって脇腹を痛めていたことが判明したが、選抜の初戦と2戦目で投げたストレートは、前年の秋に観戦した時よりも格段に力強くなっていた。

【2度目の冬を越えて激変】

 初めて達を観戦したのは、1年秋の近畿大会決勝の大阪桐蔭戦だった。一塁側スタンドからの観戦で球筋はわかりにくかったが、すでに身長190センチを超えたボールには大いなる可能性が詰まっていた。

 翌年春の選抜がコロナ禍により中止となり、夏の代替大会、甲子園交流試合も観戦できなかったため、次に観戦したのは2年秋の試合だった。エースとして近畿大会ベスト8進出に貢献したが、投球は2種類のフォークを巧みに使う印象が強かった。

 初観戦から1年が経ち、期待を最大限に膨らませて注目したストレートは、ネット裏の計測でも140キロ弱が多く、自身がこだわっていた球質も含めてやや物足りなさを感じた。

 それが高校生活2度目の冬を越えた3年春の選抜。そのストレートは劇的に変化した。抑え込むようなリリースに迫力が増し、見た目にも打者の手元での勢いや圧力が、秋とは明らかに違っていた。それは、達がこだわってきた回転数の大幅な増加を物語っていた。

 この選抜は1週間500球の球数制限が導入され話題になり、勝ち上がるなかで達の球数も注目されたが、最後は別のところで大きな話題を呼んだ。

 仙台育英戦で左脇腹に痛みを感じ、頂点まであと2勝と迫った準決勝(東海大相模戦)では登板できず、チームは敗退した。

試合後のオンライン取材で、達は「メジャーの夢があるので、今日は無理をしなくてよかった」と語り、この発言がすぐにネット記事となって拡散された。

 名門校の大エースが頂点まであと2つとなった試合で投げず、その理由に将来のメジャー挑戦をあげて語った。その発言を聞いた時、時代の劇的な変化を感じる一方で、彼の思考に触れてきた者としては、「達らしいな」と驚きはなかった。

【選抜で登板回避した理由】

 選抜が終わり夏へ向かう時に、達にロングインタビューをした。その時、あらためて選抜での発言について聞いた。

── あと2つ勝てば日本一。次の相手は東海大相模。少々痛くても......という迷いや葛藤はありましたか?

「投げたい気持ちはありましたけど、監督がいつもおっしゃっていることがあります。『ケガをして自分が普段の50%の力しか出せない状態で、別の選手が100%の力を出せるなら、どちらが今、上なのか。チームにとってどちらがいいのか』と。そこを考えた時、今回は自分ではなく、別の投手が投げるほうがいいと納得して決断しました」

 準々決勝の翌日は1日空いたものの、投球動作をすると軽い痛みを感じたため、監督と話し合い、準決勝は試合展開に関わらず投げないことを確認したという。当時の状況をそう説明した達に、さらに続けて尋ねた。

── もし夏に、県大会決勝や甲子園大会の終盤で同じような場面になったとします。

疲れも溜まって、体にも少し違和感がある。そういう状況でも、選抜と同じように割り切って決断できますか?

「春より決断しやすいと思います。夏のほうがステップまでの時間が短い分、そこで無理をすると次の世界のスタートに影響が出ますから」

── チームメイトから「投げてくれ」「最後はおまえで終わりたい」と言われても?

「その状況になったらどうかですけど、今の考えとしたらふつうに割り切ると思います」

── 無理をしないという考え方は、「メジャーで活躍したい」ということが明確になり、強くなったのですか?

「そうですね。ただ、高校野球を2年半やって、チームの目標は夏の甲子園優勝。そのなかで自分だけが先のことを口にすると、ひとりだけずれてしまうというか......そこは難しいところではあります」

 選抜の試合後、達自らが先のことを口にして注目が集まった。ただ堂々と口にできたのは、監督やチームメイトたちが普段から達の考えを理解し、その取り組みを目にしてきたからだろう。

【負けたその日からトレーニング】

 そして迎えた最後の夏。天理は奈良大会準決勝で高田商にサヨナラ負け。5回から登板した達が最後に試合をひっくり返されゲームセット。達の高校野球はここでひと区切りとなった。

 じつは5月の終わりにヒジに炎症が出て、6月はほとんど投球をせず。7月から力をこめて投げ始め、なんとか大会に間に合わせようとしたが、万全の状態に持っていくには時間が足りなかった。

 背番号は11。奈良大会では3試合に投げ、準々決勝の法隆寺国際戦では84球で13奪三振完封を演じたが、好調時のボールではなかった。

 その後、ドラフトに向けた取材のなかで、最後の夏について達はこう語った。

「あの試合もベストではなかったんです。スピードも全体的に2、3キロ遅くて、選抜では2300~2400台だった回転数も、夏の大会前は2200台が多くて。あまりいい数字ではなかったですし、大会中も大きく変わった感じではなかったです」

 そして達は、敗れた日からトレーニングを始めたとも語っていた。

「負けた日、寮に帰ってからひとりでやっていましたね。自分のなかでは、ひとつの区切りがついた、またここからという気持ちでした。甲子園に出なかった分、次に備えて練習する時間は増えた。そこはポジティブにとらえていました」

 勝ちも負けも、失敗も成功も、すべてを糧にして次へつなげる。話を聞きながら、随所に成功者の思考を感じたものだ。敗戦の翌日からは個別にジムにも通い、甲子園の様子をテレビや動画で見ることもいっさいなかったという。

 そうしたなか、8月末のブルペンでは自己最速となる149キロを記録。甲子園をかけた戦いを終えて以降、メジャーでの活躍を見据える男は、人知れず成長を重ねていた。

つづく

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