Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第6回】モネール
(横浜フリューゲルス、横浜FC)

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。

Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 第6回はJリーグ開幕前から日本でプレーし、1993年と1994年に横浜フリューゲルスで、2002年にはJ2の横浜FCでプレーしたモネールを紹介する。陽気なアルゼンチン人の知られざる素顔とは──。

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【Jリーグ】モネール・ダンスを覚えているか? 横浜フリューゲ...の画像はこちら >>
 モネールことフェルナンド・ダニエル・モネールと言えば、誰もが思い浮かべるのは「モネール・ダンス」だろう。

 1993年5月16日に行なわれた清水エスパルスとの開幕戦で、モネールは57分にチームの2点目となるゴールを決めている。相手GKがペナルティエリアを飛び出してクリアしたボールを、敵陣左サイドでカットして無人のゴールへ蹴り込んだのだった。

 得点の歓喜が全身を駆け巡るなかで、モネールはブラジル人FWアンジェロを見つけると、腰をくねらせながらお尻をぶつけ合った。この奇妙なパフォーマンスが、モネールの名前を一気に全国区へ押し上げた。

 モネールに取材する機会があれば、あのダンスについて聞かないわけにはいかない。本人も話したくて、うずうずしているようだ。

「あれはJリーグ開幕前のキャンプ中に思いついたんだ。ワールドユースでゴールを決めたガーナの選手が、腰をくねくねして踊っているのを見たんだよ」

 1993年3月にオーストラリアで開催されたワールドユースで、ガーナは準優勝を飾っている。

MFニイ・ランプティらを擁して旋風を巻き起こしたアフリカの新星たちのパフォーマンスに、モネールは目を奪われたのだった。

【JSLでも3シーズンプレー】

「フリューゲルスの練習でゴールを決めたあとにやってみたら、みんな『面白いよ』と言ってくれてね。それで、試合でもやるようになったんだ」

 1993年当時のフリューゲルスには、エルサルバドル代表歴を持つCBのチェロ--ナ、ブラジル代表歴を持つ左利きの司令塔エドゥー・マランゴン、それにブラジル人FWのアンジェロとアウドロが外国人枠を争っていた。

 モネールはサテライトと呼ばれるリザーブチームの一員とみなされていたが、チェロ--ナのケガでトップチームに抜擢されたのだった。外国人枠が予定どおり使われていたら、あのパフォーマンスを披露するのはもっとあとになっていたか、披露されないままだったかもしれない。

 もっとも、Jリーグ開幕前の日本リーグ(JSL)当時には、フリューゲルスの前身である全日空で3シーズンを過ごしている。Jリーグ開幕に合わせて再来日したが、日本のサッカースタイルに馴染んでいたから「起用されれば結果を残せる自信はあった」という言葉も、聞き手の胸にまっすぐに届いてきた。

 1993年のJリーグでは29試合に出場し、翌1994年は31試合に出場した。1967年生まれの26歳(当時)は、これからがキャリアのピークだ。しかし、1995年のスカッドリストに、モネールの名前はなかった。

 フリューゲルスは1994年途中に監督が代わっており、1995年にはジーニョ、セザール・サンパイオ、エバイールのブラジル人トリオが加入してきた。モネールの左サイドバックでは、攻撃的なポジションからコンバートされた三浦淳宏が台頭してきた。より多くの出場機会が見込めるチームへ、移籍するタイミングだったのかもしれない。

 2000年の秋に、アルゼンチンを訪れた。同年のトヨタカップで来日するボカ・ジュニアーズの取材で、首都ブエノスアイレスに滞在した。取材の合間に国内リーグが行なわれると聞き、とある古いスタジアムを訪れた。

【ブエノスアイレスで再会】

 バックスタンド最上部の右側に落ち着くと、左サイドバックの選手に見覚えがある。180cmを超えるサイズ、スラリと長い手足、スカッと刈り上げた頭髪は、どう見てもモネールだった。彼が所属しているとは知らなかったので、フリューゲルス在籍時と変わらない姿に懐かしさを覚えた。

 すでに30歳を超えていたが、タッチライン際を何度もアップダウンしていた。プレースタイルはエネルギッシュで、接触プレーで少し大げさに痛がるのは、僕が見た試合がアウェーゲームで、スコアが同点だったからか。

 取材に同行してくれている方の計らいで、試合後に立ち話をすることができた。「えっ、日本人? どうして、ここに?」と日本語で驚きを表現するモネールに、来訪の目的をスペイン語で通訳してもらう。彼は「ああ、そう」と日本語でうなずいた。

 行き先を決めていない会話は、自然とフリューゲルスへ向かっていった。

「もう一度日本へ行って、フリューゲルスで引退したいと思っていたから、チームがなくなっちゃったのはすごく残念だった。

日本にはいい思い出がたくさんあるからね」

 モネールがフリューゲルスに在籍した1993年と1994年は、世界的なスーパースターがJリーグを彩った。「ジーコ、リネカー、リトバルスキー、ラモン・ディアス......1994年のワールドカップに出場した選手も、何人かいたよね。ええと、あっ、ブッフバルトとか」と、懐かしそうに、うれしそうに話す。

「僕は代表選手じゃないけど、自分にできることを一生懸命やった。週に2回試合があるのはすごく大変だったけど、そのおかげでタフになることができたし、選手としてレベルアップできたと思う。モネール・ダンスのおかげで、僕という選手を知ってもらうこともできたしね。街を歩いていると『モネール! モネール!』と言ってもらえて、すごくうれしかったよ」

【記録よりも記憶に残った選手】

 現役引退後は日本のテレビ番組に呼ばれてサッカーレポーターとして人気を博したことで、モネールにはお茶目なキャラクターが定着した。周囲を和ませる言動は作り込んだものではないが、違った一面もある。モネール自身に言わせれば、日本へ行って「マジメ」になったそうだ。

「僕らアルゼンチン人は、とりあえず自分の言い分を主張する。そうしないと、イヤなことでも納得していると思われちゃうからね。そのおかげで言い争いになることもあるんだけど、日本人はサッカーでも、普通の生活でも、相手の言うことをきちんと聞いてから、自分の言いたいことを言う。

それってすごくいいことだな、と気づいたんですよ」

 話している内容は折り目正しいものだが、モネールの表情はユーモアたっぷりだ。身振り手振りで説明をして、こちらがうなずくと笑みをこぼす。

「それで、日本のルールとかマナーに触れているうちに、僕もとってもマジメになったんですよ。アルゼンチン人にしては、だけどね!」

 Jリーグに残る記録は、60試合出場で3ゴールだ。数字は特筆すべきものでない。けれど、あの愛らしい笑顔は、Jリーグの歴史にしっかりと刻まれている。

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