連載第63回 
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 今回は8月17日に行なわれた、第76回早慶サッカー定期戦について。

第1回は1950年。60年前には観客4万人が入るビッグイベントでした。大学サッカーが日本サッカー界を支えてきた歴史を紹介します。

【対抗戦のよさが出た好試合】

 8月17日に川崎市のUvanceとどろきスタジアム(等々力)で第76回早慶サッカー定期戦が開催され、慶應義塾大学が2対1で勝利した。

早慶サッカー定期戦はいまも熱戦の連続で人々を魅了 60年前は...の画像はこちら >>
 今シーズンは慶應が関東大学リーグ1部、早稲田が同2部で戦っている。しかし、だからといって慶應有利とは言えない状況でもあった。

 早稲田は川崎フロンターレ入団が内定しているMF山市秀翔などを擁して絶好調。2部リーグでは法政大学と激しい首位争いを演じている(その山市は全日本大学選抜のイタリア遠征に帯同したため欠場)。一方、慶應は1部で最下位と苦戦中だ。

 その慶應は開始4分でセンターバックの斎藤大雅が倒れて担架で運ばれるアクシデント。開始早々にDFラインを組み替えざるを得なくなった慶應は早稲田に押しこまれたものの、なんとか耐えきると、20分過ぎから試合を支配する。

 慶應は山市不在の早稲田のMF相手に挑みかかっていった。フィジカル的にも明らかに慶應大学が優位。

運動量や肉体のキレ、コンタクトの強度で早稲田を圧倒し、早めのサイドチェンジで早稲田に守備の的を絞らせなかった。

 そんななかで38分にはCKの流れからDFの西野純太が高いジャンプを生かしてヘディングを決めて先制。さらに、44分には齋藤真之介が持ち前のキック力で強烈なシュートを決めて2点差とした。

 しかし、後半に入ると次第に慶應選手の足が止まり始め、2点を追う早稲田が猛攻。67分にCKから久米遥太がヘディングで1点を返したが、その後は慶應が守りきって勝利をつかみとった。慶應は4年ぶりの勝利で、通算対戦成績を16勝19分41敗とした。

 この試合には10,034人の観衆が集まった。通常の大学リーグや大学選手権ではなかなかない数字だ。「さすが早慶戦」である。

 そして、ピッチ全面で激しいボールの奪い合いが展開される、熱のこもった試合がスタンドを沸かせた。

 激しい試合だったがラフプレーも時間稼ぎもなく、セットプレーの場面でも時間をかけずにすぐに再開。アクチュアル・プレーイングタイムの長い好試合だった。

 ライバル校同士の対抗戦のよさであろう。

【日本サッカー界のビッグイベントだった】

 早慶戦以外にも、たとえば中央大学と筑波大学とか、明治大学と関西大学といったようにさまざまな組み合わせでサッカーの定期戦が行なわれている。早稲田大学と高麗大学校とか、慶應義塾大学と延世大学校といったように、韓国との定期戦もある。

 そういった定期戦も、かつては国立競技場や西が丘サッカー場(味の素フィールド西が丘)を使って行なわれていたが、最近ではすべて各大学のグラウンドで行なわれるようになり、一般ファンが観戦する機会はめっきり減った。

 そんななかで、早慶戦だけは「早慶クラシコ」と銘打って大々的に開催されており、今年も1万人以上が集まったのだ。

 遠い昔、この早慶定期戦は日本サッカー界のビッグイベントのひとつでもあった。

 たとえば、1966年の第17回大会では旧国立競技場に4万5000人(実数ではなく、主催者側発表)が入った。

 それもそのはず、この年の早稲田は関東大学リーグ、全日本大学選手権に優勝。さらに天皇杯全日本選手権でも1967年1月に行なわれた決勝で日本サッカーリーグ(JSL)連覇の東洋工業(サンフレッチェ広島の前身)を破って優勝する強チームだった(これが、大学チーム最後の天皇杯制覇)。

 そして、早稲田には2年後のメキシコ五輪銅メダル獲得の立役者となるMF森孝慈(後に日本代表監督)やCF釜本邦茂が出場していたのだから、一般ファンも旧国立競技場に詰めかけた。

早慶サッカー定期戦はいまも熱戦の連続で人々を魅了 60年前は観客4万人のビッグイベント
1967年(上)と今年(下)の早慶サッカー定期戦のチケット(画像は後藤氏提供)
 大学サッカーは第2次世界大戦前は日本のサッカーの中心で、関東大学リーグと関西学生リーグがトップリーグだった。そして、日本代表も大学生またはOBによって構成されていた。たとえば、1930年の極東選手権で優勝した日本代表の主力は東京帝国大学(現、東京大学)だったし、1936年のベルリン五輪の主力は早稲田大学だった。

 戦後は次第に実業団チームが台頭してくるが、その実業団の選手も多くは大学出身者だった。

 1993年のJリーグ発足以降、大学サッカーが弱体化した時期もあったが、最近は三笘薫のようにJクラブユース育ちの選手が大学経由でプロとなるケースが増え、大学チームはかなりの戦力を維持。今年の天皇杯でも東洋大学がJ1の2チームを破っている。

 関東大学リーグの名門だった早稲田や慶應も数多くの日本代表選手を輩出しているが、昔の早慶定期戦ではOB戦も行なわれ、そうした代表クラスの名選手たちも出場していたし、「超OB戦」には往年の名選手たちが顔をそろえた。

【早慶戦のもうひとつの目玉】

 早慶サッカー定期戦のもうひとつの目玉が「ナイター」だった。

 第1回早慶定期戦が行なわれたのは1950年10月で、会場は明治神宮外苑競技場だった。1924年に完成した日本初の本格的競技場で国立競技場の前身だ。だが、日本の敗戦後は駐留米軍に接収されて「ナイル・キニック・スタジアム」と呼ばれていた(ナイル・キニックは米海軍のパイロットとして事故死した元アメリカン・フットボールの名選手)。

 そして、米軍はスタジアムに照明施設を設置していた。

 その接収中のスタジアムを借り、照明を利用して行なわれたのが早慶定期戦だったのだ。

 これが日本サッカー史上初のナイトゲームであり、その後も早慶定期戦は旧国立競技場でナイターとして行なわれた(「ナイター」とはナイトゲームのこと。和製英語だと言われているが、英国でも「ナイター」という言葉は使う)。

 旧国立競技場が解体後は舞台を等々力や西が丘などに移しながらも、早慶定期戦は「ナイター」の伝統を守り続けている(昨年は初めて新国立競技場で開催。オランダに旅立つ直前の塩貝健人も慶應の一員としてプレーした)。

 もっとも、ナイル・キニック・スタジアムの照明はとても暗かったようだし、旧国立競技場の照明も陸上競技用だったので、トラックは明るくてもサッカーのピッチは暗かった。

 しかも、1950年代には選手たちは夜間練習もしたことがなかったはずで、距離感やスピード感がつかめずかなり苦労したらしい。

 また、暗い照明は審判泣かせでもあった。

 元国際審判員でJFA審判委員長などを歴任。サッカー殿堂にも掲額された浅見俊雄さん(故人)が初めて審判を体験したのは早慶定期戦の時で、ゴールのそばに立ってボールがゴールに入ったかどうか見極めるのが役目だったという。照明は、それほど暗かったのだ。

 しかし、照明が暗くて試合は見にくくてもナイターは人気だった。当時、ナイター観戦は新鮮な体験で、緑の芝生の上を白いボールが飛び交う光景は人々を魅了した(当時のボールは天然皮革の色の茶色だったが、ナイター用に白く塗って使った)。

 第1回早慶定期戦の頃に比べたら、日本サッカーや大学サッカーを取り巻く環境は大きく変わり、サッカーの技術も戦術もボールなどの用具も違う。

 だが、ライバル校同士が意地と意地をぶつけ合う真剣勝負に、人々が魅了されることに変わりはないようである。

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