Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第10回】トーレス
(名古屋グランパスエイト)
Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。
第10回は名古屋グランパスエイトのトーレスだ。Jリーグ開幕当時に「お荷物」と揶揄されたチームを、このブラジル人CBは加入1年目から上位へ押し上げたのである。
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Jリーグ開幕3年目の1995年は、名古屋グランパスエイトにとってエポックメイキングなシーズンである。フランス人指揮官のアーセン・ベンゲルのもと、2年連続で下位に沈んでいたチームが優勝戦線へ浮上していくのだ。躍進の立役者となったのは、ドラガン・ストイコビッチである。日本で輝きを取り戻した「ピクシー」のそばには、フランス人MFのフランク・デュリックスとジェラール・パシがいた。
そして最終ラインでは、カルロス・アレクシャンドレ・トーレスがリーダーとなった。通称「トーレス」である。
グランパス加入前のトーレスは、母国の名門ヴァスコ・ダ・ガマでリカルド・ローシャとCBコンビを組んでいた。彼らのコンビネーションはブラジル国内で高い評価を得て、リカルド・ローシャは1990年と1994年のワールドカップに出場。だが、トーレスは何度か代表に招集されたものの、そのたびにケガで離脱を強いられた。
「セレソンに選ばれ続けるには、実力だけでなく運も必要だと思う。自分はケガの影響で定着できず、そのうちにクラブで活躍しても呼ばれなくなってしまった。それなら海外へ出ていくのもひとつの選択肢だと思っていたところで、グランパスからオファーを受けたんだ」
【ベンゲルが起用し続けた理由】
当時のJリーグは、外国籍選手の出場枠が「3」だった。4人の誰かがメンバー外になるのだが、トーレスはピクシーとともに不動のレギュラーとしてピッチに立っていく。
父のカルロス・アウベルトは、1970年のメキシコワールドカップ優勝メンバーだ。イタリアとの決勝戦で、ペレのアシストから豪快な右足シュートを決めたレジェンドである。サッカー王国ブラジルでも選りすぐりの血統を持つトーレスは、1990年代前半のブラジルを代表するCBのひとりだった。そのプレーを映像でチェックしたベンゲルは、すぐに獲得を決めたと言われている。
父がキャリアの晩年をアメリカで過ごしたため、トーレスは英語を話すことができる。ベンゲルとも、ピクシーとも、通訳を介さずにコミュニケーションをとることができた。指揮官のゲームプランを素早くプレーに反映していった一因である。
ベンゲルは「ゾーンディフェンスの適任者」と評した。「全員が連動する」「ユニットとして動く」といった言葉が繰り返し強調されていくなかで、トーレスのラインコントロールが全体をコンパクトにした。
彼自身も「ポジショニングには自信がある」と話したものである。「だからといって、自分で決めるわけではない」と、すぐにつけ加えるのも忘れない。「グランパスは組織的に戦っている。あくまでもユニットとしての動きのなかで、自分のポジションは決まってくる」と強調した。
それこそは、ベンゲルがトーレスを獲得し、起用し続けた最大の理由だっただろう。その時々で降りかかる問題を解決できる「個」の力を持ちながら、ディフェンスリーダーとして日本人選手と強固な連係を築いていったのである。
自らを「スピードがあるタイプではない」とも話していた。だが、スピード不足を感じさせた場面はほぼない。自身の長所だと話すポジショニングと、ピンチを未然に防ぐ危機察知能力が、そのプレーをスキのないものにしていた。
【ピクシーのゴールをお膳立て】
187cmのサイズを生かして、エアバトルでも圧倒的な存在感を示した。空中戦の強さはゴールを守るだけでなく、ゴールを奪うことでも生かされた。
ベンゲルによってモダンなスタイルが持ち込まれたグランパスは、年間順位3位でフィニッシュする。天皇杯では準決勝で鹿島アントラーズ、決勝でサンフレッチェ広島を撃破し、グランパスとして初めてのタイトルを獲得した。
天皇杯決勝に先駆けて行なわれたJリーグアウォーズでは、ストイコビッチがMVPに選出され、ベストイレブンにも名を連ねた。
トーレスは?
選ばれていないのである。CBは横浜マリノスの年間王者に貢献した井原正巳、浦和レッズの年間4位を後押ししたギド・ブッフバルトが選ばれたのだった。
1996年のグランパスは、前年から順位をひとつ上げて2位になった。トーレスは全30試合のうち29試合に出場している。チームの好成績を力強く後押ししたが、この年もベストイレブンは井原とブッフバルトに譲ることとなった。
ベンゲルは1996年シーズン途中にグランパスを去り、その後は監督交代が続く。外国籍選手の顔触れも変わっていくが、トーレスはストイコビッチとともにチームを支えていった。
グランパスでのラストマッチは、2000年元日の天皇杯決勝だった。
右サイドからのロングスローをヘディングで跳ね返し、一度は相手にわたったボールを味方選手がカットすると、そのまま攻め上がっていく。数的優位のなかでパスを受け、ストイコビッチへつなぐ。華麗なフェイントの連続からピクシーが決めた伝説のゴールは、トーレスのお膳立てから生まれたものだった。
【優良外国人が築き上げた土台】
グランパスで過ごした4年間は、トーレスにとってどんな意味を持つのか。日本を離れるにあたって、彼はこんな話をしている。
「お互いを尊重して、信頼を深めていく重要性を学んだ」
日本サッカーについても語った。期待を込めて。
「日本には優秀な選手、将来性豊かな選手がたくさんいる。あとは、経験を積んでいくことが大事になると思う。もうすでにワールドカップに出場するまでになっているし、これから国際的な経験をたくさん積んでいけば、もっともっと強くなっていくはずだよ」
日本代表は1998年から7大会連続でワールドカップに出場し、来年の北中米ワールドカップでは過去最高の成績を目指す。代表選手のほとんどは、ヨーロッパのクラブでプレーするようになった。