大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから~平尾奎太(全4回/1回目)

「これから先は1年1年、悔いのないようにしたい。連覇の代でまだ現役をやっているのは自分も澤田(圭佑/ロッテ)、大西(友也/ミキハウス)だけになりましたし......」

 今年1月に藤浪晋太郎(現・DeNA)に話を聞いた際、何度も「悔いのないように」と口にしていた。

そのなかで、ふと同級生たちの名前を挙げて語る場面があった。昨年限りで、ホンダ鈴鹿の長身左腕・平尾奎太がユニフォームを脱ぎ、現役で野球を続けている同級生は自身を含め3人となった。

 その平尾は、順調にいけば藤浪、澤田とともに大阪桐蔭の「三本柱」として注目を集め、ふたりと同じプロの舞台に立っていたかもしれない。そんな彼の数奇な野球人生をたどる。

藤浪晋太郎、澤田圭佑と強力三本柱を組むはずが... 大阪桐蔭...の画像はこちら >>

【軟式ながら約30校から勧誘】

 平尾奎太──。大阪桐蔭が藤浪、澤田の両輪で春夏連覇を達成した2012年、彼らと同級生のサウスポーである。高校卒業後は同志社大を経て、社会人のHonda鈴鹿でプレーを続け、昨年秋、30歳でユニフォームを脱いだ。引退から半年あまりが過ぎた頃、野球のない生活について尋ねると、その精悍な顔がふっと柔らかくなった。

「土日の休みがうれしすぎて、野球をやめてからの週末はほとんど鈴鹿にいないんです。奥さんと近場へ旅行に出かけたり、これまでなかなか会えなかったお互いの友人のところに会いに行ったり。3カ月先まで予定がびっしり埋まっている感じで、いちばん喜んでいるのは奥さんですね」

 子どもの頃から、生活のすべてが野球だった。土日も夏休みも、ゴールデンウィークも、いつもグラウンドで汗を流していた。ただ平尾の場合、野球一色となるはずだった高校時代に病を発症し、長くグラウンドを離れることになった。

もし順調に歩めていたなら......藤浪や澤田と同じプロの世界で投げていたかもしれない。そんな想像を抱かせる逸材だった。

 平尾の野球人生を振り返ると、あらためて大阪桐蔭と縁があったと思わせる。

「弦(げん)と幼馴染だったところが始まりですからね。5歳まで同じ社宅に住んでいて、よく一緒に壁当てをしていました。その弦と大阪桐蔭でまた一緒になって、向こうはキャプテンとしてチームを引っ張り、僕も一緒に甲子園に出て春夏連覇ですからね。縁というか、運命というか......なかなかこんなこと、ないですよね」

 平尾が言う「弦」とは、2012年の連覇時の主将である水本弦だ。水本と平尾の父がNTT北陸のチームメイトで、当時は両家族とも石川県の社宅で暮らしていた。平尾が5歳の時に父は現役を引退。一家は父の実家のある大阪に移り、やがて平尾は学童野球を始めることになる。

 父の遺伝子をしっかりと受け継いだのだろう。身長にも恵まれ、投手としても順調に成長していった。

中学では、軟式野球部から東北高(宮城)に進み甲子園出場を果たした父に倣い、地元の軟式野球部に所属。

 すると、2年の頃から「大型左腕がいる」との評判が高校野球関係者の間に伝わり、3年時のある練習試合では145キロを計測したという噂が一気に広まり、その名は瞬く間に知られる存在となった。平尾自身は「さすがに145キロはスピードガンがおかしかったと思います」と笑い飛ばしたが、身長185センチの大型サウスポーは大きな魅力を秘めていた。全国から30校ほどの誘いを受けたが、平尾の気持ちは固まっていた。

「やっぱり、僕たちの時代は大阪桐蔭でした。小学生の時に辻内崇伸さん(元巨人)、平田良介さん(元中日)、1年に中田翔(元日本ハムほか)さんがいて、あの甲子園の夏はとにかく強烈で。さらに中田さんの代のあと、浅村栄斗さん(現・楽天)たちが全国制覇。僕が中学2年の時ですね。自分もこのレベルの高いチームでエースを張って、日本一になりたい。単純にそう思ったんです」

【西谷監督が思い描いた強力三本柱】

 大阪桐蔭に入学し、幼馴染の弦との再会を果たすも、周りのレベルの高さに圧倒された。監督の西谷浩一は、平尾についてこう語った。

「噂を聞いて見に行くと、ふつうの中学生ではまともに前に飛ばない。だから、誰が見てもいいのはわかったんですけど、軟式の子はそれほど見ていなかったので、どれくらいいいのかがわからなかった。

それで知り合いの軟式関係者の人に聞くと、『間違いない。10年にひとりの逸材や』と言われて、『エースにせなあかん器か』と。あの時の投手陣については、四国からくる澤ちゃん(澤田)は使えるのはわかっていたんですけど、最終的には澤ちゃんと平尾、そして藤浪が化けてくれれば......。僕のなかではそんなイメージでした」

 ただチーム状況もあり、3人のなかからまず藤浪が1年夏からベンチ入り。秋からは澤田が加わり、平尾は2年春になってようやくベンチ入りを果たした。

 2年夏は大阪大会決勝で敗れ甲子園出場を果たせず、彼らの代となった新チームがスタートした。その秋の大阪大会の投手登録は藤浪、澤田、平尾の3人のみ。今とは時代が違うとはいえ、投手を兼任できる野手もおらず、彼らへの信頼の高さが伝わってくる。

 その初戦(阿武野)、先発の気配を感じたという平尾は、試合に向けて調整を続けていた。ところが、想像もしていなかった出来事が起きた。

「野球部の平尾、すぐ職員室へ来るように」

 休み時間の校内放送で、監督の西谷浩一から呼びがかかった。「おまえ、なにやったんや?」と、クラスメイトの野球部員から冷やかされながら職員室へ急ぐと、思いもよらぬひと言が待っていた。

【選手をあきらめてマネージャーなら】

「なんかおまえな、入院せなあかんみたいやぞ」

 じつは、春先の健康診断、尿検査で引っかかり6月に再検査を受けていた。そこでも再度要検査の判定。本来ならここで詳しく調べるべきだったが、夏の大会が迫っていたため、気になりながら通院を後回しとし、決勝で敗れた夏が終わったところで知り合いを通じ、再々検査。

 尿を提出したところ、その結果が届いたのだった。判定は血尿やたんぱく尿などが現れる慢性糸球体腎炎の一種「IgA腎症」。放置するとのち透析治療が必要な腎不全へ移行する可能性もあるとされ、野球を含めた運動ができなくなることも......。予期しない展開にまったく頭がついていかなかったが、グラウンドへの復帰を諦める気持ちは微塵もわかなかった。

 それからは母がデータを持っていくつかの病院を回った。するとそのなかで、薬をしっかりと飲み、頻繁に検査をしながら、徐々に体を動かしても数値が悪くならなければ......」と希望を口にする医師と出会い、そこからの紹介で以降は関西医科大学病院での治療を選択。初対面の日、担当の女医からはさまざまな聞き取りを受けたがピンとこなかったという

「『疲れやすいとか、なにか症状はありませんか?』って聞かれても、夏の大会前で毎日あれだけ練習していたので、みんな疲れはあるはずじゃないですか。だから、自分でもまさか病気からくるものだなんて、まったく思っていなかったです」

 やり取りのなかで、医師も平尾が甲子園を目指す高校球児であることを理解していったが、当初は「今後激しい運動は禁物です。場合によっては命にも関わります」「高校野球も選手はあきらめてマネージャーということなら......」といった言葉が続いた。

 そんなわけには......。先の見えない、孤独な戦いが始まった。

文中敬称略

つづく>>

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