連載・日本人フィギュアスケーターの軌跡
第12回 浅田真央 後編(全3回)

 今年2月に開催されたミラノ・コルティナ五輪では、団体戦を含め史上最多となる6個のメダルを獲得した日本フィギュアスケート。そんな偉大な功績は、これまでの日本人フィギュアスケーターの活躍や苦悩があったからこそのものだろう。

 2002年ソルトレイクシティ大会から2022年北京大会に出場した日本人フィギュアスケーターを振り返る本連載第12回は、2010年バンクーバー五輪、2014年ソチ五輪に出場した浅田真央を取り上げる。後編は、不調やケガもありながら2度目の五輪で金メダルを目指して戦った軌跡。

浅田真央がソチ五輪で見せた涙と笑顔の舞台裏「これなら、いける...の画像はこちら >>

【初めて味わった勝てないシーズン】

 2010年バンクーバー五輪後の世界選手権では、キム・ヨナ(韓国)を抑えて2回目の優勝を果たした浅田真央。翌2010−2011シーズンは、本田武史らを指導した長久保裕コーチのもとですべてのジャンプの矯正に取り組んだあと、9月からは1994年世界女王の佐藤有香ら数多くのトップ選手を指導した佐藤信夫コーチに師事した。

 トリプルアクセルや4回転といった高難度ジャンプの基礎点が引き上げられ、有利になったと見られるなか、フリーにはルッツとサルコウも組み込む構成に挑戦。しかし、安定性を欠いてGPシリーズ2試合では8位、5位と低迷した。

 その後、全日本選手権と四大陸選手権は190点台を出してともに2位と復活の兆しを見せていたが、東日本大震災発生のため、2カ月遅れの5月開催となった世界選手権は6位にとどまる。初めての勝利がないシーズンとなった。

 2011−2012シーズン、成功確率が低くなったトリプルアクセルをシーズン前半で封印する構成で臨み、180点台の得点を獲得する安定感を取り戻し、NHK杯で2位、次のロシア大会では優勝した。2季ぶりの出場となったGPファイナルは、母親の病状悪化で急遽帰国し、欠場したが、全日本選手権は準備期間が短いなかで2年ぶり5回目の優勝を果たした。

 そして、トリプルアクセルに再挑戦した2012年2月の四大陸選手権では、ショートプログラム(SP)、フリーともにアクセルは回転不足の判定。3月の世界選手権でも挑むが、決めることはできなかった。

【トリプルアクセル復活、そして進化......】

 ソチ五輪プレシーズン(2012−2013)でも、前半はトリプルアクセルを封印。GPシリーズ・中国大会とNHK杯はともに180点台で優勝する。

NHK杯後から腰痛に苦しむなかで臨んだGPファイナルだったが、プログラムの完成度の高さを見せ、196.80点で4年ぶり3回目の優勝を果たした。

 全日本選手権で6回目の優勝を果たすと、トリプルアクセルを復活させた四大陸選手権では、SPでノーミスの演技を披露した。フリーはトリプルアクセルの回転不足など複数のミスがありながらも、合計204.45点の高得点で優勝。結果はしっかりと残した。世界選手権でも、SPはトリプルアクセルを成功。合計197.89点にして、キムとカロリーナ・コストナー(イタリア)に次ぐ3位となり、復活を印象づけて次につなげた。

 そしてソチ五輪シーズン(2013−2014)の浅田は進化を見せた。2013年10月のジャパンオープンからトリプルアクセルに挑む。GPシリーズ・アメリカ大会を制し、男女シングル初の、GPファイナルを含むGPシリーズ通算7大会優勝の偉業を達成した。NHK杯では、フリーでトリプルアクセルの回転不足のミスはあったが、合計を自己ベストの207.59点にして優勝する。

「ショートもフリーもアメリカ大会より改善できている実感もあります。全体の滑りもリラックスして最後までスピードが落ちないのがよかったです」

 佐藤コーチは「滑りが少しずつよくなっていて、それだけではなく音楽の表現も柔らかく変わってきて、総合的によくなっています。

トリプルアクセルも練習では平均的に固まってきていますが、試合だとほんのわずかに力が入ってしまうというところがある。興奮状態でスピードが速くなってしまっているから身体が振られてしまうのが、失敗の大きな原因。どんな時でも同じ力を使えるようにさせたいです」と分析していた。

 200点台を安定して出せるようになり、次への段階として、浅田はGPファイナルでフリーにトリプルアクセルを2本入れる構成に挑戦。結局、SPは回転不足、フリーも転倒と回転不足でクリーンなジャンプはできなかったが、それでも合計204.02点で優勝と、結果は残した。全日本選手権でもトリプルアクセルは回転不足とパンクのシングルになり、3位に。ソチ五輪の代表には、鈴木明子、村上佳菜子とともに選出された。

【涙と笑顔が入り混じった2度目の大舞台】

 2回目の五輪の初ステージは、この大会から導入された団体戦だった。直近の試合では70点台を安定して出していたSPだったが、最初のトリプルアクセルをダウングレードで転倒して、64.07点の3位。浅田の心に「大丈夫かな」と不安が芽生えていた。

 個人戦SPの浅田は最終グループの最終滑走。その前の第3グループには、キムが登場。

キムは2010年バンクーバー五輪後、途中1シーズンは全休し、世界トップの舞台には2011年と2013年の世界選手権のみの出場と、表舞台にあまり顔を出していなかった。そのキムがノーミスの滑りをして74.92点を出し、暫定1位になっていた。

 最終グループ1番滑走のユリア・リプニツカヤ(ロシア)は団体戦のロシア優勝の立役者だったが、その疲労もあったのか、最後の3回転フリップで転倒して65.23点と出遅れた。その後のカロリーナ・コストナー(イタリア)が74.12点を出し、アデリナ・ソトニコワ(ロシア)も74.14点と、浅田がメダル圏内につけるには、自己ベストに迫る得点を出さなければいけない状況だった。

 そんななか、浅田は最初のトリプルアクセルを回転不足で転倒し、次の3回転フリップも回転不足。最後の連続ジャンプも単発になり、55.51点の16位と予想外の結果になった。

「団体戦のあとは調子が上がらないままでしたが、そこで強い気持ちを持たなくてはいけないと思いすぎました。滑り出してから、緊張で身体がうまく動かないのに気づきましたが、それでも行かなきゃいけないというのが、頭の中をよぎってしまった」

 浅田は硬い表情でこう話し、翌日には「終わったあとは言葉にもならなくて、今まで何をやってきたんだろうと思いました」と語った。翌朝のフリーの公式練習には「寝不足で、起きるのが遅れました」と遅刻。練習でも身体が動かず、不安が募った。

 しかし、演技前の6分間練習を滑り出した時、「自分の気持ちが大きく伸びきるような気がしました。これならいけるかもしれない」と思ったという。

そして演技前には佐藤コーチから「何かあったら助けに行く」と言われ、「自分が練習してきたことを信じてやれば、大丈夫だ」と自信を持って氷上に立った。

 トリプルアクセルを1本にし、3回転ルッツを入れる構成。浅田は最初のトリプルアクセルをしっかり決めると、その後の連続ジャンプ2本の回転不足とルッツのエッジエラーはあったが、流れを途切らせずに丁寧に滑り、スピンとステップもすべてレベル4にする演技。滑りきった瞬間、天を仰いでぽろぽろと涙を流し、涙をぬぐうと観客席に向けて笑顔であいさつをした。

「ショートではすごく悔しい思いをしたけれど、たくさんの人たちが心配してくれた。最後はやるしかないと覚悟を決めて、たとえ失敗しても自分のやってきたことを信じて跳ぶという気持ちを持って滑りました。最高の演技ができたので、恩返しができたと思います」

 こう話す浅田はフリー3位で、自己最高得点の142.71点をマーク。合計198.22点にして、6位まで順位を上げた。

「今は悔しい気持ちと、やりきった気持ちの両方があります。バンクーバー五輪でも終わった時はそういう気持ちでしたが、あとから『よかったな』と思えるようになりました。だから今回も、よかったなという気持ちがあとから自然に湧き出てくると思います」

 こう言って穏やかな笑顔を見せた浅田は、1カ月後に日本で開催された世界選手権のSPでトリプルアクセルを決めるノーミスの演技を見せ、歴代世界最高得点の78.66点を出した。フリーではソチ五輪と同じ構成で回転不足を複数出しながらも、合計を自己ベスト更新の216.69点で3回目の優勝を飾った。

 その後は1年間休養し、復帰した2015−2016シーズンはGPシリーズ中国大会で優勝してGPファイナルにも進出し、全日本選手権3位で世界選手権にも出場。翌季はGPシーズ2戦出場のあと、全日本選手権が最後の試合となった。

 競技引退後、プロフィギュアスケーターとして『浅田真央サンクスツアー』で3年間、202公演を滑りきり、2025年6月からは指導者としても活動を開始している。

 日本でもフィギュアスケートの注目度が高まってきた頃に登場し、その競技を老若男女が観戦するような全国区の存在にしたのは、浅田真央という天才少女の存在があったからこそだった。

終わり

前編から読む

第13回につづく

<プロフィール>
浅田真央 あさだ・まお/1990年、名古屋市生まれ。ノービス時代から全日本選手権に出場し、トリプルアクセルを武器に世界のトップで活躍。2010年バンクーバー五輪銀メダル、世界選手権優勝3回など数々の実績を残した。2017年に現役引退後はアイスショーのプロデュースや解説など幅広く活躍し、2025年からは指導者として活動。

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