この記事をまとめると
■環八沿いには奇怪な造形に目を奪われる「M2ビル」が建っている■バブル期にマツダが隈 研吾氏に依頼し建てたものの現在は売却され葬祭場になっている
■バブル期の破天荒なエネルギーを体現した作品ともいえる
バブルの勢いに乗るマツダと新進気鋭の建築家が生んだ怪作
東名高速・東京ICから北へ2kmほど走った環八外回り沿いにそびえ立つ、奇怪な造形のビルディング。それは2015年3月以降「東京メモリードホール」という建物名になり、冠婚葬祭業者である株式会社メモリード所有の葬祭場として運営されている。
だが、1991年に竣工したこの奇怪なビルディングは、そもそもは自動車メーカーであるマツダからスピンオフした「M2」というグループ会社が建てたもので、建物名も「M2ビル」であった。
1988年末から本格的にスタートしたマツダ「M2プロジェクト」の“M2”とは、「マツダの2番目のブランド」という意味をもっていた。そしてM2プロジェクトを発足させるにあたり、マツダは(というかM2は)、量産車を秘密主義的に研究所内で開発するのではなく、実際にクルマを購入し、使用することになるエンドユーザーと開発エンジニアが顔を合わせ、オープンにコミュニケーションを取りながら量産車を開発する──という実験的な方針の採用を決めた。

そのための“交流拠点兼研究施設”として作られたのがM2ビルだったのだ。
そして、M2プロジェクトのソフト運営面のコンペに参加していた博報堂が白羽の矢を立てた建築家が、1990年に「隈研吾建築都市設計事務所」を設立したばかりの若手、隈 研吾氏だった。
当時M2は、「普通の建物では、不景気になった途端に上層部が売却してしまう。M2を持続させるためにも、簡単には売却されないデザインのビルであることが重要だ」と考えた。そこで隈 研吾氏に「グウの音も出ないようなデザインで」と依頼したのだ。

若手建築家だった隈氏はそんなM2からの依頼と期待に、ある意味完璧にこたえた。よくも悪くもグウの音も出ない、売却しようにもちょっと無理な気がする、モダニズムとポストモダンとシュルレアリスムをかけ合わせたかのようなビルディングを作ったのだ。
ビルディングの中央にはギリシャ神殿の円柱を模した大きな柱があり、柱の上部には、紀元前6世紀半ばから紀元前5世紀にかけて誕生したイオニア式柱頭(左右に渦巻くような丸い装飾が施された柱頭)的な装飾が施されている。

巨大な円柱の内部は空洞になっていて、そこにはガラス張りのエレベーターを設置。

つまり、近代的なデザインと中世的なデザインが同居しているのが「M2ビル」であり、その意図は、隈 研吾建築都市設計事務所の公式サイトによれば、「東京のエッジをリング状につなぐ環八に沿ってたつ、自動車メーカーのデザイン・ラボ。東京のエッジはさまざまな建築様式、素材、スケールが混在する断片が散在するカオスである。その断片の集積状態を、意図的に加速、強調してひとつの建築のなかに実現した」ということであるらしい。

もう少しわかりやすい言葉でいいかえるなら、「東京23区の外周にあるさまざまな建物や事象などを、あえてごちゃまぜにした」ということになるだろう。
M2ビルのその後
そんなM2ビル(現・東京メモリードホール)では、1991年12月1日のオープン時、M2プロジェクトの市販車第1弾である「M2 1001」の発表・展示・予約会を実施。そしてその後、初代マツダ・ロードスターをベースとする「M2 1002」や「M2 1028」に関しても、開発中の工程はM2ビルで報告され、エンドユーザーはM2の開発担当者と直接、意見交換をすることができた。
だが、その後の本格的な景気減速の煽りを受けてM2は継続困難となり、1995年4月にプロジェクトは中止に。そして、「売却されないように」とデザインされたM2ビルではあったが、結果として株式会社メモリードに売却され、現在では葬祭場になっている。

M2ビルおよびM2プロジェクトに関する当時の一連の流れを「はは、いかにもバブルだね。お疲れサン」的に笑う人がいることは知っている。そして、筆者の心のなかにも、そういった感情がゼロなわけではない。
だが、クルマに限らず、「なんらかのまったく新しいプロダクトやカルチャー」を作ろうとする際には、当時のマツダやM2参加メンバー、そして若き日の隈 研吾氏も志向した「破天荒さ」のようなエネルギーが絶対に必要なのではないか──とも思う。そして、そういった破天荒系のエネルギーが不足しているからこそ、「最近のニッポンはいまひとつ面白くないのではないか?」とも思うのだ。

それゆえ筆者は、M2ビルをバブルおよびポスト・バブル期における「笑える黒歴史」のひとつとして安直にあざ笑う気にはなれない。