だが、その挑戦計画はあまりに杜撰(ずさん)であり、生還の可能性は著しく低かったと言わざるを得ないものだった。(本文:ミゾロギ・ダイスケ)
横浜博の会場騒動で新聞沙汰に
太平洋横断挑戦に取り組む前、鈴木氏は1992年4月、東京都府中市の多摩川河川敷から椅子にヘリウム風船4個を取り付けた装置によるテスト飛行を実行した。当初は数百m程度の上昇を想定していたが、砂袋2つを落下させた結果、高度は想定を大きく上回る5000m超に達したとされる。降下時にはライターの炎でロープを焼き切って風船を切断するという、極めて危険な手段を用いた。機体は最終的に東京都大田区の民家屋根に不時着し、鈴木氏は運よく軽傷で済む。この一件はメディアで大々的に報じられた。
鈴木氏はもともとピアノ調律師だったが、1984年に44歳で音楽教材販売会社を設立。音楽会も主催するようになり、フィナーレでは風船を飛ばす演出を恒例としていた。その後、複数の飲食店などを経営するが、いずれも軌道に乗らず、多額の借金を抱えた。
窮地を脱するために大きな勝負をかけたのが、1989年3月に開幕した国際博覧会「横浜博覧会」への出店だった。当時はバブル景気の最中で、銀行融資も比較的容易に受けられた時期である。鈴木氏は横浜博の会場に飲食店や土産物店など複数のテナントを出店したが、会場内の立地が悪く、経営は深刻な状態に陥った。
同年7月30日、鈴木氏は突飛な行動に出た。
この出来事は新聞でも大きく取り上げられた。今日であれば、こうした行為をすれば即時に出店不可となるのではないだろうか。しかし、当時のコンプライアンス意識ではそうならなかった。厳重注意処分のみで営業継続が認められ、むしろ協会側が鈴木氏の提案した集客策を一部採用するほどだった。
それが、ヘリウム風船でゴンドラを係留し、来場者を十数mの高さに浮かせるというアトラクションだった。
「環境保全」を大義名分に計画を進める
横浜博でのビジネスは想定通りとはならず、1990年には会社が倒産。その後、一時的にアルゼンチン人歌手のマネージャーを務めたが、それも長続きせず、億単位といわれる借金は残ったままだった。窮地に追い込まれた鈴木氏が、一発逆転を狙って計画したのが、風船による太平洋横断だった。この冒険に成功すればビジネスチャンスが一気に広がると考えたのだ。1992年4月の多摩川河川敷からの飛行は、そのデモンストレーションだった。
前後して、鈴木氏は同志社大学工学系の三輪茂雄教授と交流を持っていた。
※上を歩くと「キュッキュッ」と音を立てる砂
鈴木氏はこの運動に関心を示し、「環境保全を訴えるための飛行」という大義名分を掲げるようになった。当初の計画は、鳴き砂のある仁摩町をスタート地点とし、ジェット気流に乗って約40時間でアメリカ・ネバダ州サンド・マウンテン付近を目指すというものだった。
ゴンドラは「ファンタジー号」と名付けられ、約2m四方・深さ1mの箱型構造で、桶職人に依頼し檜材で製作された。
アドバルーンの専門会社が手掛ける直径6mの主力ビニール風船6個と、補助風船を含め計32個を装着する想定で、浮力調整のためのバラスト(重り)には、低温でも凍らない沖縄の焼酎が用いられた。
太平洋横断へ、まさかのゲリラ飛行
1992年11月23日、鈴木氏は滋賀県の琵琶湖畔で「ファンタジー号」の試験飛行を行うとして、支援者、三輪教授と同志社大の学生、地元新聞社通信局長、『おはよう!ナイスデイ』(フジテレビ系)スタッフらを集めた。運輸省(現・国土交通省)には届け出を出していたが、認可されたのはあくまで地上に係留した状態での試験飛行のみだった。機体は一時120mまで上昇し、いったん地上へ戻った。しかし午後4時20分ごろ、鈴木氏は「行ってきます」と言い残しまさかの行動に出る。係留ロープを自ら外したのだ。なかなか高く浮上しなかったため、焼酎瓶(200本)と酸素ボンベを地上に投下。するとゴンドラは急速に上昇を始めた。
こうして、運輸省の許可がないままゲリラ的に計画が強行された。
あまりに無謀過ぎた計画の数々
この計画がいかに無謀だったかを確認しよう。各種報道や記録などによれば、ゴンドラには次のような装備が積み込まれていたとされる。酸素ボンベ(48時間分)、食料(「カロリーメイト」など)、緯度経度測定器、高度計、速度計、海難救助信号機、ビデオカメラ、無線緊急発信装置、レーダー反射板、携帯電話、地図、パラシュート、ハーネス、ヘルメット、酸素マスク、サングラス──。防寒着としてスキーウエアが採用され、ほかに毛布5枚が防寒アイテムとして用意された。
鈴木氏は断食の訓練をしており、食料は最小限とした。また、報道されたリストに飲料水は含まれていない。言うまでもなくこれは生命維持のための最低限の条件を放棄するものだった。
また鈴木氏は積極的に無線免許を取得しようとせず、通信手段のひとつとして選んだのは携帯電話だ。携帯衛星電話サービスの商用本格化前であり、鈴木氏が命綱として所持したのは通常の携帯電話だったと考えられる。
1992年当時の携帯電話の通信はアナログ方式であり、電波の届く範囲は限定的で、沿岸から離れると圏外になりやすい。
軽装備でデスゾーンを目指す、風船の構造的限界…
計画の根幹は「ジェット気流に乗る」という一点にあった。ジェット気流が存在するのは、高度7000~1万2000m付近であり、多くがエベレストの山頂(標高8848m)を超える領域にあたる。この高度では気温が-40℃から-60℃に達する。これを考えると毛布ではあまりに心もとない。少なくとも、極地登山で用いられるような耐寒性の高いシュラフ(寝袋)や防寒装備を用意すべきだった。鈴木氏の装備では凍傷リスクだけでなく、凍死リスクも極めて高かった。
登山の世界では高度8000mを超える領域は「デスゾーン」と呼ばれ、酸素マスクなしで生存は困難とされる。ところが鈴木氏は、浮力を稼ぐために酸素ボンベを投棄してしまった。また、平地から高度8000mへ急激に上昇すれば、重度の急性高山病が急速に進行し、意識障害や呼吸困難に陥る危険がある。
「ファンタジー号」は2m四方なので、なんとか体を横たえることができたかもしれない。だが、低温下で眠れば凍死の危険があり、バランスが崩れ落下リスクが高まる。かといって休息を取らなければ衰弱が進み、判断力も低下する。
一方で、飛行中の排せつの困難さも十分に検討されていたかどうかは不明である。マイナス数十度の世界では排せつ物はすぐに凍結する。
さらに風船の破裂リスクも極めて高かった。高空では地上に比べて気圧が極端に低くなるため、地上でヘリウムを充塡(じゅうてん)した風船は、上昇するにつれて内部のガスが膨張し、ビニール素材がそれに耐えきれず破裂する危険がある。
そして、極低温下ではビニールが硬化し、わずかな張力の変化でも裂けやすくなる。風船の素材が破損しなくても、ヘリウムガス自体が分子レベルで少しずつ漏れ出すため、時間の経過とともに浮力が失われていく。
「到達」と「生還」は別問題
そもそも、このファンタジー号には舵もなく、すべて風まかせだった。北米方面に飛ぶとは限らないのだ。浮力を増すためのバラストの焼酎瓶は離陸時にすでに投棄されたため、上昇や下降を制御する手段は、風船を機体から外す、穴を開けてガスを抜く以外にほぼ存在せず、陸地や水面に軟着陸する術がなかった。鈴木氏がパラシュートの訓練を受けていたという情報はない。不安定で極限状態の環境下で狭いゴンドラから正しい姿勢で飛び出し、開傘・操作・着地を安全に行うことも容易ではないことはあきらかだ。つまり、この飛行計画には“安全な着陸の方法”そのものが欠けていたのだ。
加えて、この挑戦には、一般論として法的なリスクも存在した。日本の航空法では、許可なく航空機を飛行させることが禁止されており、離陸や飛行形式によっては、鈴木氏の行為が関連法規に抵触するおそれが指摘されていた。
さらに、無通告のまま他国の領空を通過する可能性もあり、国際法上、領空侵犯と見なされる場合がある。こうした観点から、軍や沿岸警備隊による迎撃・拘束などの措置が取られる可能性も理論上は否定できなかった。
仮に鈴木氏が奇跡的に太平洋を横断し、北米大陸上空に到達したとしても、自らの位置を正確に把握することは事実上不可能に近い。たとえ陸地を視認できたとしても、人のいる土地に降り立てる保証はなかった。アメリカ本土では都市域は国土の一部に限られるし、アラスカ州やカナダでは大半が森林やツンドラ、山岳などの無人地帯だからだ。
つまり、「アメリカに到達する」ことと「人のいる場所に辿り着く」ことはまったく別問題だった。
最後の通信、そして消息不明に
鈴木氏は出発前、「もし太平洋横断を決行したら、マスコミが家に押しかけてくるだろう」と考え、家族を都内のホテルに宿泊させていた。つまり、密かに本飛行を強行する意図を持っていたのである。飛行直後、テレビ局スタッフが携帯電話で連絡を取ると、鈴木氏は「ヘリウムが少し漏れているが、大丈夫だ」と応じた。鈴木氏の妻だった石塚由紀子氏の著書『風船おじさんの調律』(未来社)によれば、夜の10時以降は1時間ごとに家族に電話が入り、「風船の様子がおかしい」「思ったより高度が上がらない」「海に出た」「煙草を吸った」といった言葉を残したという。携帯電話がつながるということは、それほど高くない空中を浮遊していたことを示している。
翌24日午前6時、「スバラシイ朝焼けだ!きれいだよ」「行けるところまで行くから、心配しないでね」と家族に告げたのを最後に携帯電話は不通となった。
24日深夜~25日朝にかけて緊急信号が発信された。同日8時半、海上保安庁の捜索機が宮城県・金華山沖東方約800kmの洋上で飛行中の「ファンタジー号」を確認した。高度は約2500mで、北東方向へ進行していたという。
鈴木氏は救助機に向かって手を振り、SOS信号を停止。機体から物を投下して再び高度を上げる様子も見られたため、保安庁は「飛行継続の意思あり」と判断し、午前11時半ごろに追跡を打ち切った。ジェット気流には届かず、高度2500m前後の寒冷下で漂う機体はやがて視界から消えた。
以後、鈴木嘉和氏の行方は、現在に至るまで不明のままである。
■ミゾロギ・ダイスケ
昭和文化研究家、ライター、編集者。スタジオ・ソラリス代表。大学の文学部を卒業。スポーツ雑誌、航空会社機内誌の編集者を経て独立。『週刊大衆』をはじめ、各媒体で執筆活動を続ける。犯罪、芸能全般、スポーツ全般、日本映画、スキー、プロレスなどを守備範囲とするが、特に昭和文化研究はライフワークだ。著書に『未解決事件の戦後史』(双葉社)。

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