【依佐美送信所】官民・米軍間を揺れ動いた世界最大級の無線送信所|産業遺産のM&A

依佐美送信所は愛知県依佐美村(現刈谷市)に建設された世界最大級の大電力無線送信所であった。その設計・施工には当時、日米間に海底電信線を敷設することを目的に設立された日本無線電信が深く関わっている。

日本無線電信とは、日本でラジオ放送が開始された1925年、日本無線電信株式会社法の成立によって設立された特殊会社である。

国営か民営か。無線・電波業界は、昔も今も「官と民」の間で揺れ動いていた。

渋沢栄一が設立委員長となる

まず、依佐美送信所の設計を担った日本無線電信について振り返ってみたい。1910年代後半、日本は日露戦争・第一次大戦により、工場の動力源として電力の普及が急速に進むなど、一見、民間経済は潤っていた時期があった。その一方で、政府財政は支出がかさみ、困窮化していた。

その頃、すでに実業界を引退し日米協会の創立など国際間の交流を重視していた渋沢栄一は、1919年にまず日米間に海底電信線を敷設する会社を設立することを検討していた。

大正期は1914年に鳥潟右一、横山英太郎、北村政治郎が共同で、世界初の実用無線電話機(TYK無線電話機)を発明するなど無線技術は急速に発展し、通信に適した波長をできるだけ早く獲得しておく必要があった。特に、大きな電力を必要とする大電力無線局を建設する必要性を感じていた。

だが、前述のとおり、政府財政が困窮化していたため、実際には国が主導権を握りつつも民間資金を利用する案が検討された。そして1925年に成立したのが日本無線電信株式会社法であり、日本無線電信はこの法律の成立を受けて設立された株式会社であった。海底電信線から無線へと形態は変わったが、渋沢栄一を設立委員長とする数多の会社の一つである。

KDDIに受け継がれた日本無線電信

日本無線電信は、外国無線電報用の無線電信設備と関連する付属設備を建設・維持し、この設備を政府に提供することを主な業務とした。当時、国内の電信電話事業は逓信省の管轄であったため、海外通信の管轄について議論がなされた。

国は伝送する通信内容とそれを実現する設備の建設・維持業務を政府が押さえれば、設備は民間のものを利用しても法律上は問題ないと考え、日本無線電信は法律に基づく設備提供会社と位置づけられたのである。

そこで依佐美送信所も、設計・施工などには日本無線電信が対応しても、その設備そのものを政府に提供すればよいと考えたのだろう。詳細は省くが、依佐美は広い土地が確保できる、電波妨害が起こる高い山脈がないなど、地勢的にも欧州への無線通信に適していた。

ところが、ここに、もう一つの国際電話事業会社が関わることになる。いわば日本無線電信と同様、法律の制定を受けて設立された国際電話株式会社である。

日本無線電信は1938年、この国際電話と合併し国際電気通信株式会社になり、以後は国際電気通信が業務を引き継いだ。

この国際電気通信は第二次大戦後の1947年、GHQ(連合国総司令部)指令によって解散し、その後、国際電気という株式会社となる。さらに国際通信事業はさまざまな事業会社の経営のもとで発展し、現在は日本の大手電気通信事業者、KDDIへと継承されていった。

日米に翻弄された!? 依佐美送信所の歴史

日本の国際通信事業が整備発展していくなかで、依佐美送信所はどのような歴史をたどったのか。

1925年、逓信省は依佐美村に送信所を、三重県海蔵村(現四日市市)に受信所の建設をそれぞれ決定した。依佐美送信所は第二次大戦前の1929年に完成し、欧州向けに運用を開始した。

4月にはポーランドのワルシャワに向けて双方での送信業務をスタート。発信した電文は名古屋無線電信局から陸上の連絡線を通って依佐美送信所へ、さらに同送信所から欧州へ。

受信した電文は四日市の海蔵受信所へ、という対応だった。依佐美送信所はやがてベルリン、ロンドン、パリなど欧州の主要都市との交信を開始し、1930年のロンドン軍縮会議などでの“情報戦”においても活躍した。

GHQから米海軍の管理下へ

民間会社が設立したものといっても、運営は国の管理下に置かれている。このことが、のちの依佐美送信所の運営にも影響を及ぼす。

第二次大戦後の1947年のことだ、GHQは「無線塔の解体命令」を発出した。ところが、1950年になって今度は解体命令の中止を発表する。おそらくGHQは依佐美送信所の有用性を再認識したのだろう。結局、この送信所は米軍が接収した。

1952年9月、米海軍によって依佐美送信所の開所式が行われ、在日米軍が無線塔の使用を開始した。1950年以降、依佐美送信所は日本人によって運用されていたとしても、それは米海軍の管理下にあった。

東海道新幹線に乗ったとき、車窓にひときわ高くそびえる8本の鉄塔を遠望したことがある人は多いはずだ。だが、それは長らく米海軍の管理施設であった。

バブル景気の最中の1989年、電子情報通信学会の東海支部が依佐美送信所開局60周年を記念して、「対欧無線通信発祥地」の石碑を建立した。

だが、その時代にあっても、依佐美送信所は米海軍の管理下にあった。米海軍が依佐美送信所からの送信を中止したのは1993年のことだ。さらに、日本に返還されたのは翌1994年のことだった。

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米海軍の管理下にあったことを示す案内板(依佐美送信所記念館)

記念館として新たな顕彰の歴史を刻む

1993年まで稼働し、大電力のドイツ製テレフンケン式発電機を使用した長波による送信設備を擁した伊佐美送信所。「依佐美の無線塔」と地元に親しまれ、東京タワー(333m)が建設される1958年まで「東洋一」の高さを誇り、刈谷市のシンボルでもあった高さ250m、8本のアンテナ鉄塔は、1997年に撤去された。

長波は海面下でも伝わる特性から、第二次大戦時は日本海軍の潜水艦との交信にも使われた。あの「ニイタカヤマノボレ」の暗号文も依佐美送信所から超長波によって潜水艦に発信したと、今も伝説のように語り継がれている。

その依佐美送信所は2007年に依佐美送信所記念館としてオープンした。記念館は2006年に解体された旧依佐美送信所の隣地にリニューアルされた刈谷市の施設である。もともと長波の発信機である高周波発電機が2対設置されていたが、そのうちの1対が記念館に保存されている。

記念館の外観は旧送信機室を模したもので、高周波発電機をはじめ送信所が活躍した時代の設備が数多く保存されている。長波による送信所で完成当初の設備などが現存しているのは、依佐美送信所とスウェーデンのグリメトン送信所だけだという。

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記念館内にある巨大な主直流電動機と高周波発電機

また、敷地内、記念館玄関前には、250mの鉄塔の頂上部と基部を合わせた高さ25mの記念鉄塔が建っている。1999年に建設された、刈谷市の新たなシンボル、田園地帯に威容を誇るランドマークともいえるだろう。

国際組織のIEEE(電気電子技術者協会)は、2008年に依佐美送信所記念館をIEEEマイルストーンとして最終承認した。同年、国立博物館が同送信所の送信機器一式を未来技術遺産に登録、翌2009年には経済産業省が記念館保存の高周波発電機などを「近代化産業遺産」に認定した。

そして、2029年に依佐美送信所は開局100周年を迎える。

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新たなシンボルとなっている高さ25mの記念鉄塔

文:菱田秀則(ライター)

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