
芸能界のキーパーソン、とっておきのディープな会話、いま初めて明かされる真相。アイドルを論じ続けた中森明夫が、戦後日本を彩った光と闇の文化史とともに、“虚構”の正体を浮かびあがらせた話題作『推す力 人生をかけたアイドル論』(集英社新書)より、一部抜粋、再構成してお届けする。
歌もダンスも未熟だったAKBお披露目イベント
「ぜひ、見てほしいものがある」
秋元康氏から、そんな知らせがあった。人を介しての依頼である。2005年末のことだった。 秋葉原へ足を運んだ。ビルの上層階の小さな劇場である。満杯の客席には、見知った顔も多い。業界人向けのお披露目イベントである。
音楽が鳴って、女の子たちがステージに飛び出してきた。女子校の制服のような衣装を着た少女たちが、唄い、踊る。20人ほどはいるだろうか? 歌も、ダンスも、未熟だった。容姿もパッとしない。みんなガッチガチに緊張していて、必死さだけがひりひりと伝わってくる。
それでも、見ている内に「おっ」と思う瞬間があった。

AKB48劇場がある秋葉原
数曲を唄い終え、メンバー紹介があった。プレスリリースが渡され、スタッフサイドから概要の説明がある。それで終了だ。
久々に会った秋元康氏に声をかけた。
「とても楽しめました、がんばってください!」
「ありがとう」
笑顔で握手を交わした。
当時は、何度目かの〝アイドル冬の時代〟と呼ばれた時期である。モーニング娘。が『LOVEマシーン』で大ヒットを飛ばしたのは1999年のことで、その後、人気は退潮している。
こういう時期に秋元康が新たなアイドルを仕掛けるという。どういうことだろう? 私は首をひねった。
「……いい顔になる」AKBブームを予見した超おたく
「中森さん!」と声をかけられる。同世代のアイドル系ライター、O氏だ。「ちょっと話そうか?」と近場のカフェにご一緒した。
O氏が編集長を務めるミニコミ雑誌を初めて見た時の驚きを、どう伝えたらいいだろう? ページを開くと細かな文字でびっしりと女の子の名前が並んでいる。全国各地のミュージックスクールの発表会に出かけていった記録だ。そこで見たアイドル志望の少女たち、何百人もの採点リストなのだ!! これには仰天した。
まだデビュー前、アマチュア時代の幼い後藤真希や小柳ゆきの写真が載っていたりする。さらには椎名林檎が椎名林檎になる前、16歳時の本名でのイラスト入りエッセイが連載されてもいた!! すごい。異様な熱度のアイドルマニア、O氏は超おたくなのだ。

写真はイメージです
「秋元さんがアイドルの世界に帰ってきたのはうれしいけれど、いったい、どうするつもりなんだろうね? こういう時期だし、すぐに火はつかないでしょ。
そんな疑念を口にした。O氏は神妙な表情をしている。やがて、ぽつりと呟いた。
「……いい顔になる」
えっ? 何を言っているのだろう。さっぱり意味がわからない。
「あの娘たち、みんなどんどんいい顔になるよ!」
きっぱりとそう言ってのけると、O氏は満面の笑みを浮かべた。唖然とする。
翌日、彼は劇場へと駆けつけ、件のアイドルグループの正式デビューに立ち会った。観客は、たった7人だったという。
2005年12月8日のこと。
O氏のような本物のアイドルおたくと、所詮はアイドル評論家の私との相違があらわになった一幕であった。
Perfumeにも最初はみんなぽかんだった
21世紀最初の10年、いわゆるゼロ年代に女性アイドルはパッとしなかった。それでも07年4月、私は初の評論集『アイドルにっぽん』を上梓している。反応は冷ややかなものだった。「アイドル評論? ぷっ、何それ(笑)」といった調子だ。しかし、この本は一部の若い層にひときわの熱度をもって読まれた。
『アイドルにっぽん』の終章に、私はPerfumeの『コンピューターシティ』をBGMとして記した。当時、仕事場でPerfumeの楽曲をガンガンに流していたのだ。
ある日、若い女性アーティストらの個展に招かれた。恵比寿のギャラリーだ。小さなスペースに女の子たちの写真やイラストやオブジェが展示されている。私は持参したCDを流してもらった。
「あっ、Perfumeだ! わたし、大好きっ!!」
たった一人だけ、反応した女子がいる。東京藝術大学を出たばかりだという彼女は、パッと瞳を輝かせ、Perfumeの『チョコレイト・ディスコ』に乗って踊っていた。
もふくちゃん、こと福嶋麻衣子さんだ。そう、後に秋葉原の〝萌え社長〟として名を馳せ、でんぱ組.incのプロデューサーとなる。

「チョコレイト・ディスコ」が収録されたアルバム『GAME』
08年1月、10歳下のライターの強い誘いでSHIBUYA-AXホールへ行った。AKB48の第1回リクエストアワー公演である。異様な盛り上がりだった。デビューから2年、こんなにもファンを獲得していたのか!? 率直な驚きだった。
Perfume、AKB48、そして、ももいろクローバー(Z)が続く。ゼロ年代後半の胎動を経て、一気にアイドルが息を吹き返した。
女子アイドルグループが次々と名乗りを上げ、何しろ数が多い。大手芸能プロダクションに所属しない、いわゆる地下アイドル、インディーズアイドル、さらには全国各地で独自の活動を展開する地元アイドル、ご当地アイドルらが大量に輩出した。一説にその数、1万人以上(!)とも言われる。日本のアイドル史上、空前の事態、熱い盛り上がりともなった。
「最大公約数ではなく最小公倍数の時代になったから」
これにはメディア環境の大きな変化が背景にある。かつてアイドルはテレビがメインステージだった。テレビに出ないとアイドルとして認められない。テレビから姿を消して〝アイドル冬の時代〟となった。
しかし、新たな時代のアイドルブームは、テレビがメインステージではない。ライブ+インターネットだ。AKB48は〈会いに行けるアイドル〉をキャッチフレーズとした。秋葉原の専用劇場で毎日ライブがある。握手会には何万人ものファンが押し寄せた。アイドルに関する情報やファンの声が大量にインターネットで発信される。テレビの影響力は低下した。スマホの普及がそれに追い討ちをかける。もはやテレビを持たない若い世代が現れ、スマホ一つですべて事足りるとした。
テレビのキー局はすべて東京にある。大手芸能プロダクションも同様だ。つまり、かつてアイドルになろうとすれば、東京在住が必須条件―上京するしかなかった。今は違う。地元でライブをやって、地元から発信できる。インターネットの普及によって、全国各地がアイドルの活動できる場になったのだ。

国民的人気を誇るAKB48 (Photo by Koki Nagahama/Getty Images)
たとえば地方に住む、芸能プロダクションに所属しない1人の少女がいるとしよう。路上でライブをやって、スマホで動画を撮り、YouTubeにアップする。なんと、たった一人でアイドル活動が展開できるのだ。いつでも、どこでも、誰でもアイドルになれる。24時間、世界中に発信できる。これは大変なことだ。アイドルをめぐるメディア環境は、一変してしまった。
2009年春、一時復刊した「朝日ジャーナル」誌上で秋元康氏と対談した。久々に再会した秋元氏にAKB48をプロデュースした真意を訊いたのだ。
「最大公約数ではなく最小公倍数の時代になったから」と氏は答えた。なるほど最大公約数(テレビ)のおニャン子クラブから、最小公倍数(劇場)のAKB48へ―といったわけだろう。
AKB48はどれだけメジャーになっても、秋葉原の地元アイドルなのだ。SKE(栄)、NMB(難波)、HKT(博多)、NGT(新潟)、STU(瀬戸内)と全国各地に支店グループを増殖させ、さらにはJKT(ジャカルタ)、SNH(上海)、TPE(台北)とアジア諸国にも進出している。乃木坂46以下、欅坂(→櫻坂)、日向坂と〝坂道系〟と呼ばれるAKBの公式ライバルグループを次々とデビューさせ、ブレークさせた。
小さな劇場から出発したアイドルの種を、歳月を費やして咲き開かせ、やがて幾何級数的に倍加させる。最小公倍数の時代をみごとに先取りしてみせたのだ。それにしても、その圧倒的な仕事量! 秋元氏のアイドルに懸ける情熱と徹底ぶりはすさまじい。
文/中森明夫
写真/Shutterstock
『推す力 人生をかけたアイドル論』
著者:中森 明夫

2023年11月17日発売
1100円(税込)
新書判/256ページ
978-4-08-721289-1
アイドルを論じ続けて40年超。「推す」という生き方を貫き、時代とそのアイコンを見つめてきた稀代の評論家が〈アイドル×ニッポン〉の半世紀を描き出す。彼女たちはどこからやってきたのか? あのブームは何だったのか? 推しの未来はどうなるのか?
芸能界のキーパーソン、とっておきのディープな会話、いま初めて明かされる真相――そのエピソードのどれもが悶絶級の懐かしさと新鮮な発見に満ちている。
戦後日本を彩った光と闇の文化史とともに、“虚構”の正体が浮かびあがるアイドル批評の決定版!