
フランスではカトリック教会が中心なので、セクトという言葉が他の国のカルトと同じ意味を持つことになったという。
セクトとは宗教社会学の世界で広く用いられてきた学術用語で、プロテスタントの諸派をさすことが一般的とされている。
書籍『日本の10大カルト』より一部を抜粋・再構成し、フランスにおける「セクト」(カルト)の捉え方をその歴史的背景から紐解く。
フランスのカルト規制法「反セクト法」とは何か?
すべての創唱宗教はカルトとしてはじまる。そのように考えていいのではないだろうか。だからこそ、宗教とカルトを区別することが難しいのだ。カルトについての基準が、創唱宗教にすべてあてはまるのもそのためなのである。
しかし、フランスではカルト規制法が成立し、カルトと目される団体が指定されたではないかと言われるかもしれない。
その点について議論する必要があるが、そもそも、ここまでカルト規制法ということばを使ってきたものの、その正式な名称にはカルトは登場しない。それは、「人権および基本的自由を侵害するセクト的運動団体の予防および抑制を強化する法律」というものであった。そこには「セクト的」という言い方はあるものの、カルトということばは登場しない。
「反セクト法」という略称が用いられることもあるが、それも正確ではない。問題とされているのは、セクトそのものではなく、「セクト的運動団体」だからである。
では、セクトとは何を意味するのだろうか。こちらは、カルトとは異なり、宗教社会学の世界で広く用いられてきた学術用語である。
チャーチは教会を意味し、日本ではとくにキリスト教の礼拝施設をさすが、宗教社会学におけるチャーチは、それぞれの地域において支配的な宗教をさし、カトリック教会や東方正教会、あるいは英国国教会などがそれにあたる。
これと対をなすのがセクトで、こちらはプロテスタントの諸派をさすことが一般的である。プロテスタントはいくつもの派に分かれている。しかも、チャーチでは幼児のときの洗礼に見られるように、信仰を選択する機会が与えられないが、セクトでは成人に達してからの洗礼が基本で、選択の自由が保証されているところに特徴がある。
キリスト教は、ローマ帝国のなかで拡大していくが、帝国が東西に分裂していくことで、やはり東西に分かれ、東では東方正教会が、西ではカトリック教会が成立する。カトリック教会は西ヨーロッパにおいて、強大な権力を持つ組織に発展し、皇帝や王といった世俗の権力者と対抗、対立するようになるが、16世紀には宗教改革が起こり、そこでプロテスタントが生まれた。チャーチとセクトが対立するようになるのは、それ以降のことである。
ただ、このようなとらえ方をした場合、カトリックが少数派であるような地域ではどうなるかといったことが問題になる。たとえば、アメリカ合衆国では、カトリックは全体の4分の1を占めるに過ぎない。アメリカのカトリックは、他のプロテスタントと同じ立場にあるわけで、それを社会に支配的なチャーチとしてとらえることはできない。
アメリカについては、チャーチとなるような宗派が確立されず、カトリックを含めさまざまな宗派が分立し、それは地域別、あるいは民族別、階層別に組織されている。
フランスでカルト指定された日本の宗教団体
このように、チャーチとセクトという概念で宗教教団を区別する見方にはいろいろと問題があり、そもそもキリスト教にしかあてはまらない部分がある。イスラム教だと、神秘主義の集団を除いて教団組織を形成しないので、いくらその地域で支配的であると言ってもチャーチとは言えない。
ただ、フランスでは、カトリック教会が中心なので、セクトということばが、他の国のカルトと同じ意味を持つことになった。それでも、反セクト法では、セクトを特定したわけではない。リストアップされたのは、あくまでセクト的な行動をとる団体なのである。
では、セクト的な行動とは何なのだろうか。
1995年に国民議会調査委員会が左派社会党のジャック・ギュイヤールを報告者として議会に提出した「ギュイヤール報告書」では、10の基準が示されている。
それをあげれば、精神の不安定化、法外な金銭要求、元の生活からの引き離し、身体に対する加害、子どもの加入強要、反社会的な言説、公序に対する脅威、訴訟を多く抱えている、通常の経済流通経路からの逸脱、公権力への浸透の企て、である。
そして、セクト的な行為をとる173の団体のなかには、幸福の科学、フランス神慈秀明会、霊友会、崇教眞光、創価学会インタナショナルといった日本発の新宗教も含まれていた。そして統一教会もである。
この報告書であげられていた基準は、その集団がどのような行動を行ったかである。集団がどのような組織構造を持っているのか、あるいはどういった教義を掲げているのかはまったく問われていない。
カルト(セクト)と言えば、一般的にはカリスマ的な教祖を中心とした小規模の過激な集団というイメージがあるが、そのイメージに重なり合うようなことは、基準にまったく含まれていないのだ。
つまり、ギュイヤール報告書は、カルト(セクト)についての定義をまったく行っていないと言える。
こうした報告がなされ、セクト的行動を規制する法律が作られたことについては、フランス社会の特殊性が深く関係している。
フランスでは、フランス革命が起こった際に、カトリック教会から権力を奪うために、聖職者を処刑したり、教会の財産を国家に移転させるなどの処置が施された。その後、フランスでは、厳格な政教分離を求める「ライシテ」の原則が確立され、それは憲法にも織り込まれた。
そのため、公共空間において信仰を誇示する行為には制約が課せられるようになる。イスラム教徒の女性が公共空間で「ヒジャブ」と呼ばれるスカーフを被ることが法律で禁じられるまでになったのだ。
こうしたフランスの特殊な環境がなければ、反セクト法が生まれることはなかったであろう。伊達聖伸は、「反セクト法は、フランス社会および政府による反セクト闘争の絶頂期に制定されたが、その勢いはほどなくして沈静化に向かう」と指摘している(島薗進編『政治と宗教―統一教会問題と危機に直面する公共空間』〈岩波新書〉の第4章「フランスのライシテとセクト規制」)。絶頂期とは、まさにカルトの事件が頻発した1990年代をさす。
カルトとしてはじまっても次第に失われる「カルト性」
フランスでさえ、セクトを定義できなかった。しかも、反セクト法は、いったんは成立したものの、それによってセクトに対して強い規制がかけられたわけではない。その後、フランス国内には旧植民地のイスラム教圏からの移民が増え、セクトよりもイスラム教に強い関心がむけられるようになった。
フランスにおいてさえ、反セクト法(カルト規制法)は、十分に機能しなかった。それも、セクト(カルト)を定義することが難しく、特定の集団をセクトに指定して、規制することができないからである。
ここで重要な点は、カルトとしてはじまった宗教は、歴史を経るに従って変貌をとげ、社会に定着することによって周囲と軋轢を生まない方向に転換していくことである。つまり、宗教はカルトとしての性格、「カルト性」を失っていくことが多いのである。
キリスト教は、当初は世の終わりがすぐにでも訪れることを強く説いていたが、原罪の教義を確立し、教会に贖罪の機能があることを打ち出すようになることで、終末論的な傾向は薄れていった。
イスラム教でも、多神教徒との軋轢が大きかったメッカの時代には、神の啓示は終末論的な色彩が濃かったが、メディナに移った後は、信者の日々の生活を律する事柄を説くようになり、やがてそれはイスラム法の確立に結びついた。
日本の新宗教についても同様の経緯をたどった事例をあげることができる。
戦前にもっとも勢力を拡大した天理教は、初期の段階では、「ビシヤツと医者止めて、神さん一条や」と、病気になった際に医者にかかることを真っ向から否定し、信仰によって病を治すことを強く説いていた。病はその人間に対する神からの問題点の指摘だというのだ。
天理教ではまた、教祖は貧しい人々の境遇を自ら体験するために、身の回りのものをすべて周囲に与えてしまったという伝承があることから、「貧に落ちきれ」というスローガンが打ち出され、信者に対して財産をすべて教団に寄進するよう求めた。
実際、そうした行為に及び、それでも布教活動に邁進した信者たちがいた。作家の芹沢光治良の両親も財産をすべて寄進して布教に邁進したため、芹沢は幼少期に塗炭の苦しみを味わったと後年述べていた。
しかし天理教は、1935年に「天理よろづ相談所」という医療機関を設置し、1937年には私立病院としての認可を受けている。「ビシヤツと医者止めて」ではなくなったのだ。この病院はその後発展を続け、今では総合病院として高い評価を得るまでになっている。
教団の姿勢は大きく変わった。「貧に落ちきれ」などと献金を強要することもなくなり、天理教の布教活動は社会的に問題視されなくなった。天理教は、しだいにカルト性を薄めていったと見ることができる。教団の規模が拡大すれば、社会の常識的な価値観と強く対立するわけにはいかなくなるのである。
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日本の10大カルト (幻冬舎)
島田裕巳
なぜ人は眉を顰められながらも、カルトにひかれるのか? 2022年7月8日に起こった安倍晋三元首相の狙撃殺害事件以来、改めて旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)をはじめとするカルト宗教に注目が集まっている。そもそもカルトとは「狂信的な崇拝」「少数者による熱狂的支持」のことである。よって、それがカルトなのか単なる新宗教なのかの線引きは難しい。またカルト教団が、そのままオウム真理教のように反社会的行為に及ぶ危険集団であるわけでもない。