
『ラスト・クリスマス』などで知られる人気ポップデュオの「ワム!」のメンバーだったジョージ・マイケル。ソロとしてもグラミー賞を受賞するなど、数々の華々しい実績を持つ彼だが、そんな彼の中で「最高だと思った瞬間」があったという。
アイドル的人気の「ワム!」時代からワイルドな大人の魅力を持ったポップスターへ
イェオルイオス・キリアコス・パナイオトゥは、1963年6月25日、ロンドン郊外に住むギリシャ移民の父とユダヤ系の母のもとに生まれた。
その後「ジョージ・マイケル」となった彼は、1980年代半ばに世界的な成功を手にする。
この「ジョージ・マイケル」とは、内気な自分に打ち勝つために、心の中で生み出した架空のスターの名前だった。
「世界中が愛することができるような人物、僕の夢を現して僕をスターにしてくれる誰かを、(素晴らしい友だちというイメージで)創り出したんだ。僕は彼をジョージ・マイケルと呼んだ」
1981年、学生時代からのバンド仲間であるアンドリュー・リッジリーと「ワム!」を結成し、翌年『ワム・ラップ!』でデビュー。
5年ほどの短い活動期間に3枚のアルバムを発表し、『ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ』『ケアレス・ウィスパー』『ラスト・クリスマス』『フリーダム』『恋のかけひき』といったヒット曲を次々と世に送り出した。
解散後、ソロ・アーティストとして本格始動したジョージ・マイケルは、1987年10月にデビューアルバム『フェイス』を発表。
4曲ものNo. 1ヒットが生まれ、全世界で2,500万枚以上の驚異的なセールスを記録。グラミーのアルバム・オブ・ザ・イヤーをはじめ、数多くの音楽賞を手にした。
アイドル的人気のイメージが強い「ワム!」時代から、ワイルドな大人の魅力を持ったポップスターへと脱皮しただけでなく、セルフ・プロデュースでほぼ全曲のソングライティングと演奏も手掛けた本作で、アーティストとしての底知れぬポテンシャルをまざまざと見せつけたのだった。
「歌詞のみ」や「本人出演なし」PVを作成した理由
日本でも若い世代を中心に売れまくった『フェイス』は、発売から52週間にわたる長いキャンペーンが続いた。
そして1988年2月には、10ヶ月に及ぶワールドツアーが日本からスタート。
しかし、世界中を飛び回るハードなスケジュールの中で、喉に腫瘍ができたりと、ジョージは精神的にも肉体的にも疲弊していった。
「僕は、ソングライターとしての自分の能力や才能を守るために、パブリシティやプロモーションやマーケティングといったところから退いていたい。(中略)その才能を守るために戦う必要があるって気づいたんだ。それ以上に、僕の生活を守る必要がある」
ソロデビュー時のプロモーションで、多くの人に染みつかせてしまったマッチョでセクシーなイメージや、グルーピーたちに騒がれるポップスターとしての人気を脱ぎ捨て、シンガーとして、ソングライターとして、そして一人の人間として真っ向から勝負したい。
そんな中で、1990年9月に発表されたセカンド・アルバム『リッスン・ウィズアウト・プレジュディス Vol.1』には、ジョージの強い信念が込められた。
「“ジョージ・マイケル”は作り物だった。決して現実のものじゃなかった。それを恥じるつもりはないけれど、もう終わりだ。それは当初の目的よりもずっと長く生きた」
「名声や孤独ほど早く人をダメにするものはない。ステージやビデオに出てくる人物なんて、本当は存在しないんだ。でも、ソングライターは存在する。それに歌も存在する」
シングルカットされた『プレイング・フォー・タイム』のPVは歌詞のみの映像、『フリーダム!’90』のPVには本人は登場せず、ナオミ・キャンベルやシンディ・クロフォードら当時のトップモデルがリップシンクで出演するなど、「偏見抜きに聴いてほしい」という姿勢はとことん貫かれた。
それも作品に対する揺るぎない自信があったからこそだろう。
イギリスでは前作『フェイス』を上回るセールスを記録した『リッスン・ウィズアウト・プレジュディス Vol.1』だったが、アメリカでは200万枚にとどまり、前作のセールス記録から大きく後退した。
所属レーベルのプロモーションが行き届かなかったために、米国内での売れ行きが伸び悩んだのに加えて、当時のレーベル・オーナーであったトミー・モトーラがアルバムについて酷評。
そのことに激怒したジョージは、レーベル相手に契約無効を訴える裁判を起こす。
「僕のキャリアで最高の誇らしい瞬間だったよ」
本来2枚組となるはずだった『リッスン・ウィズアウト・プレジュディス』は、進行上の都合もあり先行して『Vol.1』がリリースされたが、裁判が泥沼化したことで『Vol.2』の発売は立ち消えになってしまう。
その後も契約上の問題も発生して、ジョージは思うようにレコーディング作品を発表できない時期が続いた。
ポップスターの顔と、表現者としてのジレンマに揺れながらも、ひとりの人間として信念を貫く。この時、ジョージ・マイケルはまだ27歳。
そして、このまま忘れ去られるスターの一人になりかけたとき、ある出来事が起こる。
1992年4月20日にウェンブリー・スタジアムで行われる、フレディ・マーキュリー追悼コンサートに出演することになったのだ。
コンサートには、フレディと親交の深かったエルトン・ジョンやデヴィッド・ボウイをはじめ、イアン・ハンター、ロバート・プラント、ロジャー・ダルトリー、ポール・ヤング、アクセル・ローズなど数多くのスターたちが駆けつけて、次々に素晴らしいパフォーマンスを披露した。
その中でも、多くの人たちの心に強い印象を残したのが、ジョージ・マイケルの『愛にすべてを』(原題:『Somebody To Love)だ。
ジョージのルーツの一つに、クイーンの音楽があった。
「コンサートに行ける年齢になってからは、クイーンのショウ全部に畏怖の思いで巡礼に行ったよ。ステージにいるフレディを見た時には『すごすぎる…あそこに立つのはいったいどんな感覚なんだろう』って思った」
ジョージは、フレディと同じ感覚を味わったに違いない。何しろ、クイーンのメンバー3人による演奏をバックに『愛にすべてを』を歌ったのだから。
「クイーンの曲、特に『愛にすべてを』を歌うのは、本当に信じられないような気分だった。多分、僕のキャリアで最高の誇らしい瞬間だったよ」
文/TAP the POP サムネイル/Shutterstock
参考文献
『自伝 裸のジョージ・マイケル』(ジョージ・マイケル、トニー・パースンズ著/沼崎敦子訳 CBSソニー出版)
『フレディ・マーキュリー 孤独な道化』レスリー・アン・ジョーンズ著/岩木貴子訳(ヤマハミュージックメディア