
27歳で突然役者を辞め、アメリカなどを放浪したのちプロデューサーに転身した小橋賢児氏。今では日本最大級の都市型音楽フェスとなった「ULTRA JAPAN」の開催に携わることになった経緯や、大阪・関西万博の催事企画プロデューサーとしての展望などを聞いた。
ULTRAを東京のど真ん中でやりたかった
90年代に『人間失格』など多くのドラマに出演し、次世代を担う若手俳優として期待されていた小橋賢児氏だが、27歳で突然、俳優を休業宣言。その後、アメリカを放浪していたときに、米マイアミで「ULTRA」(世界最大級のダンスミュージック・フェス)を体験し、いつかこのイベントを日本でも開催したいと思ったらしい。
「ULTRAが韓国で立ち上がるときに、知り合いがフェスのボスを紹介してくれたんです。そうしたら、その人に『今から1時間以内に日本人のDJを5人ブッキングしてくれ』って言われて(笑)。
フェスの常識がわからないから、そういうものかと思って、他に仕事もなかったから、必死に動きました。本番までは本来やらなくてもいいことも手伝ってたから、めちゃくちゃ忙しくて。ギャラは安かったんだけど、生きてるなって実感がしたんです」(小橋賢児氏、以下同)
この「ULTRA KOREA」が、小橋氏の大事な転機になった。
「2012年に『ULTRA KOREA』 が開催されたときは、ちょうどYouTubeやSNSが広まったタイミングだったので、日本でもオンラインで見ている人が多かったんですよ。
そのときに呟かれていたのが、『ヤベェ』と『“どうせ”こんなの日本ではできないよ』って内容。自分も昔はこの“どうせ”って、どっかで思ってた側だったんです。
でも、これがもし日本の東京のど真ん中で開催される奇跡が起きたら、これからの若者の人生観も変わるかもなと。どうにか持ってきて、これを東京のど真ん中でやりたいと思ったんですよ。
もちろん僕1人の力では無理なのはわかってました。
初めはサポートするぐらいの気持ちだったんですが、『それだけ情熱を持っているなら、お前が先頭切ってやれ』と言われまして、結局クリエイティブディレクターを5年間やらせていただきました」
2014年に初開催された、「ULTRA JAPAN」は成功裏に終わった。その後、小橋氏は株式会社LeaRを立ち上げ(2021年にThe Human Miracleに社名変更)、2020年に「東京パラリンピック」閉会式の総合演出、花火の未来型エンターテイメント「STAR ISLAND」、そして「大阪・関西万博」の催事企画プロデュースなど、数多くのイベント・プロデュースを手がけることとなる。
「オリパラに関しては、実は渋谷の街中でやるイベントのディレクターをやっていたら、それがコロナで延期になって、物理的な時間の都合で辞退したんですが、その後にお話をいただいたんです。
時期ははっきり言えませんが、開催の数ヶ月前です。まず思ったのは、『え、嘘でしょ』と『普通に考えたら時間的に無理だよな』ということ。でも、その話を聞いたときに鳥肌がたったんですよ。頭で考えると無理だけど、身体の反応を信じようと思って、受けたんです」
昭和100年の節目に開催される万博について思うこと
大阪・関西万博から依頼がきたのは、パラリンピック後ということだが、あとで関係者から話を聞くと、パラリンピック以前から小橋氏の名前が上がっていたという。「催事企画プロデュース」とは具体的にどんなことをするのだろうか?
「万博は184日間の開催期間中にたくさんのイベントがあります。開会式、閉会式、主催者の主催者催事、一般企業や団体の一般参加催事、その他、各国がやるイベントもあって。
僕の役割の一つは、たくさんのイベントの企画を集めるということ。
建築プロデューサー、運営プロデューサー、その他各パビリオンのプロデューサーもいらっしゃるなかで、僕の担当はイベントのプロデューサーという形です」
大阪・関西万博は、開催決定直後から「公費のムダづかい」という批判が起き、最近でも前売り入場券が目標の半数強どまりであることがニュースで取り沙汰され、一部では「失敗確定」などと揶揄されている。小橋氏はこうした声をどう受け止めているのだろう。
「もちろんいろいろなご意見は受け止めつつも、1人でつくってるイベントではないので、それに対してなにか言うのは僕の役割ではないと思っていて、与えられた環境の中でなにができるのか必死に鋭意努力することなんだと思います。
ただ、こういう博覧会って体験しないと理解はしづらいだろうとは思います。例えば高度成長期で物に憧れたがあった時代の『月の石』と今の時代では価値も変わってしまう。
さらに、1970年万博のときはテーマが『進歩と調和』でしたけど、今回のテーマは『いのち輝く未来社会のデザイン』でいのちというのは可視化しにくいし、共通に理解するのは簡単ではないんだと思うんです。
けれども、実際に体験した人が感動したり、そこでなにかを感じて他の人にシェアして繋がったりして、それが輪になっていくような、後からどんどん『いのち輝く未来社会のデザイン』が伝わって大きくなっていくじゃないかと思ってるんですよ」
一旦の沈黙があったあと、こう付け加えた。
「1970年の大阪万博のときも事前にはひどいことを言われいてたとも聞きますし、パリ万博のときも完成したエッフェル塔を見て 『アグリー(見苦しい)』と貶す人たちもいたらしいので、既存の固定概念のなかではなかなか全てを理解してもらうのは難しいんでしょうね」
セカンドキャリアが順風満帆に見える小橋氏だが、目標は会社を大きくすることでなく、「自分の人生を生きるきっかけになるような出会い、刺激の空間を作ること」だという。
「万博に関しては批判もいろいろあるけど、僕はいつの時代でも全てのことに意味があると思うし、体験しないよりは体験した方が絶対いいので、1つの場所で世界一周ができるような、新しい価値観に出会える機会を僕は作りたい。
偶然か必然か、今年は昭和から数えると100年目なんですよね。日本にとって昭和から今に至るまでの100年ってすごく大きかったと思います。
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取材・文/高田秀之 写真/本人提供