
元CA芸人として注目を集め、テレビやラジオ、YouTubeなど多方面で活躍するCRAZY COCO(クレイジーココ)さん。新卒で商社に勤務した後、27歳で外資系航空会社のCAに転職。
周りが就活する中、オーストラリアへの留学を決心
――CRAZY COCOさんは、小さい頃からCAを目指していたんですか?
CRAZY COCO(以下、同) 全然そんなことはなくて、子どもの頃は特に夢もなく、ただ漠然と「楽しくふざけながら生きていけたらいいな」と思っていました。学校では活発なお調子者で、毎日友だちとワイワイ過ごしていましたね。
ただ、母が自営業をしていたので、その姿を見て育った影響もあり、当時は「社長になりたい」と口にしていたみたいです。
でも、現実的に考えると、自分がそこまでの覚悟を持って働くイメージはなくて。大学生になる頃には、「普通に卒業して、OLとして働いていくんだろうな」と思っていました。
――お母さんはどんなお仕事をされていたんですか?
大阪・北新地でラウンジのママを40年間やっていました。
小さい頃、母は仕事の内容をくわしくは教えてくれなくて、私が理解できる年齢になるまでは「社長をやっているよ」とだけ伝えてくれてました。だから、子どもの頃は「お母さんって忙しい社長さんなんだな」と思っていましたね。
成長して母の仕事を知ったとき、「浮き沈みの激しい世界で、ずっとお店を続けているなんて、かっこいいなぁ」と思いました。
ただ、自分が同じ仕事をできるかと言われると、それは難しいなと。母は毎日何百件もメールを送り、土日はゴルフの接待、夜は遅くまで仕事……そんな生活をずっと続けていたので。
でも、母は家族をとても大切にしていて、アメリカから親戚が来るタイミングに合わせて私に学校を休ませ、みんなで旅行に行くことも日常茶飯事でした。その結果、休みすぎて授業についていけなくなることもありましたけど(笑)。
――初めて海外へ行ったのはいつですか?
私が中学2年生の4月に父が亡くなり、同じ年の8月に母といとこと私の3人でサイパンへ旅行したのが、初めての海外でした。
父は、私が2歳のときにALS(筋萎縮性側索硬化症)という病気を発症し、私が物心ついた頃にはすでに寝たきりの状態でした。
小さい頃から「海外に行ってみたい」という気持ちはずっとあったんですが、父が生きている間は実現しませんでした。
やっぱり、父を連れて海外旅行に行くとなると、現地で何かあったときの対応や病院のことを考えると、ものすごくハードルが高くて…。
――大学時代はオーストラリアに留学されていたそうですね。留学を決めたきっかけは?
そもそも、私の通っていた大学は、外国語に特化していたわけではなく、そういうカリキュラムがまったく充実してなかったんですよ。
でも、大学2年生のときに1ヶ月間の短期留学プログラムがあって、ロサンゼルスに行きました。ただ、1ヶ月だけでは英語力が全然伸びなくて……。
「いつか長期留学できたらいいな」と思いながらも、大学生活はアルバイトに明け暮れ、あっという間に大学3年生になってしまい……。
周りが就活を始める中、私はやりたいことが見つからず、「このまま9時から17時の仕事をするのかな?」とかいろいろ考えていたんです。
休学することで卒業まで5年かかることになりましたが、それよりも「英語を自分の武器にしたい」という思いが強かったですね。
ブラック商社から憧れのCAへ転職
――大学卒業後は商社に勤めていたとのことですが、そこから転職を考えたきっかけは?
そもそも、商社の最終面接では「商品部で英語圏を担当させてもらえる」と聞いていたのに、実際に入社してみたら中国担当だったんですよ。しかも、残業代も出ない、有休も取れない、言わばブラック企業と言える会社でした。
入社初日から「ここじゃないな」と直感的に感じていましたが、日本の社会では「新卒で入った会社で3年は働かないと次のキャリアが厳しい」とよく言われるので、とりあえず耐えていました。
でも、入社して2年半が経った頃から、水面下で転職活動を始めました。当時は「早くここから抜け出さないと、私の人生が腐ってしまう」という思いでいっぱいでしたね。
最初はCAになろうなんてまったく考えていなくて、別の商社などへの転職を視野に入れていました。
――では、なぜCAになろうと思ったのでしょう?
オーストラリア留学のときに出会った友人「ユウコ」が、先に外資系航空で働いていて、大阪フライトの際に「ご飯行こう」と誘ってくれたんです。
当時、その外資系航空のクルーは大阪フライトの際にヒルトン大阪に宿泊していたので、ロビーで待ち合わせしました。そこでユウコから「2年ぶりに会社の採用が再開するから、絶対受けた方がいいよ!」と言われたんです。
正直、そのときの私はその外資系航空がどれほどすごい会社なのか、全然知りませんでしたが、ユウコが制服姿で、20カ国籍ほどのクルー30人くらいと一緒にロビーに現れた瞬間、その雰囲気に圧倒されました。「すごくキラキラしていてかっこいい。
そのとき初めて「その外資系航空に入りたい!」と思い、本格的に転職活動を始めました。
――日系の航空会社への転職は考えていなかったんですか?
とにかく早く商社を辞めたかったので、一応、その外資系航空と同時進行で日系の航空会社も受けていて、先に日系の内定ももらっていました。でも、採用試験対策は完全に本命のその外資系航空1本に絞っていましたね。
外資系航空は2013年11月に最終面接があったのですが、その後、翌年の3月末まで何の連絡もなかったんです。だから、もう落ちたと思っていて、日系の航空会社に行くつもりでいました。
そんなとき、突然「+971」(アラブ首長国連邦の国番号)から始まる知らない番号から電話がかかってきたんです。出てみると、中東訛りの英語で「Hello, Congratulations.」と告げられたんです。
「あかんかったらやめたらええし。人生一回きりやから」
――そんな大変な思いをして入った外資系航空を辞めて、芸人になった理由は?
外資系航空に入って4年半が経った頃、母の体調が悪くなり、それを理由に退職しました。もし母の体調が問題なければ、きっと今もドバイでCAを続けていたと思います。それくらい、そこでの仕事は楽しかったですね。
退職後、日本に帰国してからは、英語学習コンサル会社、総合商社、外国人の就労サポート会社と、いくつかの仕事を転々としました。
そんな中、外国人の就労サポート会社で働いているときにコロナに感染し、1カ月間高熱が続いて、生死を意識する経験をしました。そのとき、「本当に自分がやりたい仕事はこれじゃない。どうせなら、やりたいことを仕事にしたい!」と思ったんです。
小さい頃から人前に立つのが好きで、友人の結婚式の余興でも「絶対に盛り上げたい!」と張り切るタイプだったので、「これを仕事にできたらいいのにな」とずっと思っていました。そんな思いが積み重なり、芸人になることを決めました。
――芸人になる際、家族や友人から反対されましたか?
1回も反対されなかったですね。でも、母に伝えたときは驚かれました。
「芸人になります!」と言ったら、「なんて!?」って聞き返されましたが、そのあとすぐに「まあ、やったらええやん。あかんかったら、やめたらええし。人生一回きりやから、楽しんだらええんちゃう」と言ってくれました。
友だちも「ワンチャンあるんちゃうん?」みたいなノリで、みんな応援してくれましたね。
――YouTubeの登録者数が33.8万人のCOCOさんですが、現在は吉本興業に所属されていますよね。フリーでYouTuberやインフルエンサーとして活動する道を考えたことはありますか?
YouTube自体は、吉本興業に所属する前からやっていました。でも、私にとってYouTubeはあくまでプラットフォームの一つ。それよりも、事務所に所属したほうが仕事の選択肢が広がると考えたんです。
「エンターテイナーになりたい」と思っていたので、事務所に所属できるのであれば、絶対に吉本興業に入りたかったんです。「THE W」に初出場した際にスカウトしていただいて、晴れて吉本興業所属の芸人になりました。
――今後の目標や夢は?
もっとテレビに出たいなと思っています。今はテレビを見る人が減ってきていますが、私は子どもの頃からテレビが大好きだったので。
それと同時に、現在も定期的に行っている留学セミナー、CA志望者向けのセミナー、転職セミナーなども続けていきたいですね。
これからも、自分の経験を活かしながら、人のきっかけになるような発信をしていきたいです。
取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班 撮影/村上庄吾