
中継ぎ投手初の1億円プレーヤーにして薄毛キャラでも人気を博した元近鉄の佐野慈紀さん(57)。彼は昨年5月、糖尿病によってその利き腕を失い、「このままだと5年しか生きられない」と宣告された。
それは野球人としてもう一度球界に貢献したい気持ちと、不義理をした盟友・野茂英雄への贖罪の意味もあった。〈前後編の後編〉
右手を失っても野球人
「最初は右手人差し指と中指を感染症で切断したんです。その時点では『いいサークルチェンジが投げられるかも』ってアホなことを考えてたんやけどね(笑)。
結局、感染拡大を食い止められず、右腕ごと切り落とすことになりましたが、今度は残った左腕で投げられるようにしたるって」
隻腕になっても、小学校4年で出合いたくさんの経験をさせてくれた野球への情熱を失っていない佐野さん。
高校時代は強豪・松山商業で控え投手ながら甲子園準優勝、進学先の近畿大学で頭角を現すとプロの目に止まって1990年ドラフト3位で近鉄に入団。1996年オフには中継ぎ投手初の年俸1億円を突破し、「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」(フジテレビ系)ではそのキャラクターがフィーチャーされて人気選手の仲間入りも果たした。
「入った球団がよかった」と、佐野さんは今はなき近鉄バファローズ時代をこう振り返る。
「本当に居心地のいいチームでしたよ。仲がいい同僚がいて、個々の選手の意識も高い。近鉄という球団で過ごした日々は本当に充実していました」
しかし、理解者であった仰木彬監督が退任し、野茂英雄や吉井理人、入来智といった盟友たちが次々と近鉄を離れると、モチベーションの低下と自身のトミージョン手術の影響もあり成績は低迷。トレードで中日へと移る。
「新天地では腐りきってました。
そんななか、イチから這い上がる覚悟で佐野さんは渡米を決意。アメリカで大成功していた野茂氏の存在もあっただろう。だが現実は甘くない。独立リーグのエルマイラ・パイオニアーズに所属後、ドジャースとマイナー契約するも、ついにメジャーに昇格することはなかった。
それでも“野球人”である佐野さんにとって得たものは大きかった。
「マイナーだからいつクビになるかわからない。そんな立場なのにチームメイトは本当に楽しそうにやってるんですよ。
それが不思議でしょうがなかったから『お前ら、不安じゃないのか?』って聞いたら『自分の好きなことをやってるのに、なんでネガティブなことばかり考える必要があるんだ?』って逆に質問された(笑)。
ハッとしましたね。たしかに自分は楽しむことを忘れてた。
盟友・野茂と金銭トラブル報道で一気にどん底へ
帰国後、オリックスにテスト入団するも、「正直、7割はやりきったという気持ち。現役晩年は結果を残すことよりも、自分の経験を誰かに伝えたいという思いが強くなった」と2003年限りで引退を決意、フリーの野球評論家としての活動を開始する。しかし……。
「最初はそれなりに仕事があったんです。それが徐々に減っていって……。そんなこと家族に言えないし、営業がてらの会食の頻度も増えてどんどん散財してしまって……」
それが最悪の形で世間に露呈する。2018年に報道された野茂英雄氏との金銭トラブルだ。家族もそこで初めて我が家が経済的に困窮していることを知り、家庭は崩壊。後に離婚している。
どん底のなかで持病だった糖尿病が悪化し、昨年5月に右腕を切断せざるを得なくなったことは前編で紹介したとおりだ。
しかし、冒頭の言葉のとおり、佐野さんは持ち前の明るさを失っていない。
「始めて隻腕になった自分を鏡で見たときはいろいろネガティブな感情も湧いてきた。でも障がい者になったからってコソコソしてるのもおかしいでしょ。
根っからの野球人なのだろう。退院して間もなく、年末、神宮球場で行われる少年野球大会での始球式のオファーが届く。
それを目標に順調にトレーニングを重ね左手での投球もさまになってきた。しかし、今度は腰への感染症が発覚。始球式まであと1か月という段階で、再度の長期入院を余儀なくされてしまう。
「正直、『またかよ……』と心が折れそうになりました。でも絶対に始球式には行きたかった。公で元気な姿を見せて子どもたちや同じ糖尿病患者を勇気づけたい気持ちもありましたしね。
それまでのトレーニングはムダになったし、前日に少し歩行練習をしたくらいのぶっつけ本番。当日は入院中の病院からタクシーと車いすで神宮球場に向かいました」
始球式の映像を見ると、佐野さんの顔色の悪さが目立つ。まさに満身創痍だったが、見事、左手のみの“ピッカリ投法”を披露。マウンド手前からのワンバウンド投球に、球場は拍手に包まれた。
第二の野球人生へ向けてすべきこと
今年4月に退院してからは体調も安定しているという佐野さん。トレーニングも再開し、1日平均8000~9000歩は歩けるようになった。「今度は絶対にノーバン投球をします!」と鼻息はあらい。
「始球式がうまく投げられるようになったら今度はキャッチボールができるようになりたい。その次は打者相手に投げたい。それができればエキシビジョンゲームでマウンドに立つ機会をもらえるかもしれないでしょ?
そうやって第二の野球人生を切り開けていきたいと今は思ってます」
仕事はしなくてはいけない。さらに野茂氏への借金の返済も残っている。この騒動については、「ほとんどしゃべれることはありません」と口は重いが、公私でお世話になった親友に不義理をしたままではいけないという強い気持ちがあるという。
「そのためなら一般職でも、新聞配達でも何でもやるつもりです。でも、やっぱり僕は野球人。働くうえでそれが一番の武器かなと思ってます」
ゆくゆくは野球教室を開いて子どもたちに野球の楽しさを伝えたいと語る佐野さん。野球を通じて社会と関わることが、自身を育ててくれた野球への恩返しだと確信している。
取材・文/武松佑季
撮影/榊智朗