
アメリカに暮らす日本人向けフリーペーパーに「帰国セミナー」の広告が目立つようになったという。かつてインターネットが未発達だった時代に情報源として重宝され、日系企業の米国進出の足がかりにもなったこれらのコミュニティ誌で、なぜ今、日本への帰国が促されているのか。
在ロス広告代理店「MIW」社長の岩瀬昌美氏の著書、『大谷マーケティング』(星海社新書)より一部抜粋、再編集してお届けする。
なぜ、在米日本人・日系人は日本に帰国するのか
アメリカには日本人向けの日本語フリーペーパーが種々あります。そのような雑誌では最近「帰国セミナー」の広告が目立つようになってきました。
アメリカには日系のみならず、中国系や韓国系などのフリーペーパーがあります。まだまだインターネットが発達していなかった時代はこういったコミュニティ誌がアジア系住民がつながる場所となり、異国の地で生きる者たちの心のよりどころになっていました。日系およびアジア系スーパーに必ず置いてある、大切な情報源でした。
マーケターとしても、コンシューマー向け製品を扱う日本企業が米国進出する際はこういったアジア系のフリーペーパーに広告を出稿することをおすすめしてきました。まずは親和性の高いアジア人から徐々に攻めていく戦略です。
今はネット時代なのでフリーペーパーにはかつてほどの影響力はありませんが、それでも現地で生き抜いてきた移民たちにとっては大切な雑誌です。
そのフリーペーパーに、日本への帰国を促すセミナーの広告がこんなにも載るなんて、ちょっと衝撃を受けています。
なぜ一生懸命アメリカで生きてきた在米日本人や日系人が、あえて日本に帰国しなくてはいけないのでしょうか。それはここまで書いてきた通り、物価高や住居費の高騰などアメリカに住むために必要なコストが恐ろしいほど高まっているからです。
老人ホームに月150万円、払えますか?
駐在員の中にはアメリカの生活に馴染み、永住を決めてグリーンカードを取得した人もいます。そうした方々は一度日本企業を辞めて現地採用に切り替えたり、全く違うアメリカの企業に転職したりしました。
大企業の駐在員は海外赴任手当、住宅手当などの福利厚生が豊富なため、それがなくなると一気に給料がダウンするのですが、それでもアメリカの物価が安いときは許容できるレベルでした。
しかし時が経つにつれ、年をとった自分の医療費もかさんできます。そして歴史的なインフレで生活が苦しくなり、さらには自分の老人ホームも探さないといけない年齢に近づいてきます。
前の章でも書きましたが、カリフォルニアの老人ホームの最低ラインは月1万ドル(約145万円)です。アメリカの社会保障だけではなかなか厳しい額です。
しかし日本なら月30万円程度で同レベルの老人ホームに入居できます。それに加えて国民皆保険制度があるうえ、モノがなんでも安い。だからアメリカから日本に戻る人がいま増えているのです。
特にコロナ以降、永住権保有者だけではなく、アメリカ国籍を取得して帰化した人ですら、国籍を日本に戻して帰国する人を見かけます。
2018年から減り続ける「米国における在留邦人数」
統計を見てもこのことは明らかです。日本の外務省によると、2024年の米国における在留邦人数は41万4615人で、2018年の44万6925人から減り続けています。
たしかにドナルド・トランプ政権で日本人がビザを取得しにくくなったという問題もありましたが、そうでない2021年から2024年のジョー・バイデン政権下でも在米日本人は減っています。
新型コロナウイルス流行の影響で日本人が国外へ出にくい時期ではありましたが、アフターコロナになってもその数は戻っていないことを踏まえると、アメリカにおける日本人コミュニティは確実に縮小しつつあるといえます。
私が最初にアメリカに来た30年前、家電量販店「BEST BUY」に行くとテレビも冷蔵庫も洗濯機も日本製のものばかりでした。パナソニック、東芝、日立、三洋……。家電量販店に入ると、日本人であることを誇りに思いました。
オレンジ郡のエンゼルス・スタジアムの近くにある超高級モール「サウス・コースト・プラザ」のエルメス、シャネル、ルイ・ヴィトンの店に行けば日本人のセールスパーソンがいて、アメリカ人の店員も東洋人を見ると「コニチワ」と片言で話しかけてくれました。
かつては英語が喋れなくてもロスで暮らしていけた
さらにカリフォルニアでは日本の車が至る所で走っていました。かつてはトヨタ、日産、ホンダ米国本社がロサンゼルス郡トーランス市にあり、そこには大勢の日本人が住んでいました。日経新聞、朝日新聞、読売新聞などの新聞も配達されていました。
もともと日系人の中心的地域はリトル・トーキョーでした。しかしバブル期以降はトーランスに日本人が集まり、昔からの日系人とは異なる日本人、いわゆる「新一世」の中心的地域になっていました。そこは英語が話せなくても日本語で暮らせてしまうような場所でした。
その後日本が「失われた30年」を過ごす間にアメリカは大きく変わりました。
今、家電量販店「BEST BUY」に行くとテレビも冷蔵庫も電子レンジもサムソンやLGなど韓国ブランドばかり。日本製品は隅に追いやられています。
2000年代になると、ロサンゼルスで韓国系コミュニティが目立つようになりました。朝鮮戦争の後、家族で移住してきた韓国人がロサンゼルスに大きなコミュニティを形成したのです。
弊社MIWの調べでは、コリアン・タウンの実質的な面積はリトル・トーキョーの約10倍以上にまで膨れ上がりました。さらにK‐POPが流行し、韓国コスメが一般量販店でも販売されるようになりました。
以前日系人が経営していたクリーニング店、レストランなどの経営権も韓国系に移っていき、「サウス・コースト・プラザ」でも韓国人のセールスパーソンが増えました。お店に行くと「アンニョンハセヨ」と声をかけられるようになったのです。
カリフォルニアでぶいぶいいわせるフィリピン人
さらに2010年代以降は中国本土出身者が増え、「サウス・コースト・プラザ」に行けば「ニーハオ」と声をかけられます。「中国人じゃないよ」と伝えると、セールスパーソンがササァァ……と消えていってしまいます。
日系人が運営していたクリーニングなどのビジネスは韓国系に取って代わられ、爆買いは中国人にお株を奪われました。
また、カリフォルニアでは中国系並みに人口が多いフィリピン人も高いプレゼンスを発揮しています。
「クールジャパン」など幻想にすぎない
日本だと看護師さんは「3K」と言われ、給料はそんなに高くないのに重労働というイメージもあります。ところがアメリカのレジスタード・ナース(正看護師)の給料はカリフォルニアで平均時給56ドル(約8100円)。
そのため、夫婦2人で看護師だと世帯年収が軽く20万ドル(約3000万円)を超します。ちなみにカリフォルニアの最低賃金は2025年1月現在で16・5ドル(約2500円)です。
また、インド系も英語が堪能でIT企業に勤める人が多いため、彼らの給料は高いです。2021年のニューズウィークの発表によると、アメリカのアジア系の中で給料がトップなのはインド系です。
ではわれわれ日系人には「これ」という何か強み、特色はあるのかというと、悲しいことにないのですね。日本政府は「クールジャパン」として日本のアニメや漫画文化などを海外に押し売りしていますが、少なくとも「クールジャパン」という言葉はアメリカでは浸透していません。
またこういったコンテンツが刺さるのは一部のオタク系(ナード)ですので、なかなか「ジャパン・アズ・ナンバーワン」時代のような輝きを取り戻すには至っていません。
2万5000店舗日本食レストラン、日本人オーナー1割のみ
さらに日本ではアメリカは日本食ブームと言われています。確かにアメリカには2万5千件以上の日本食レストランがありますが(JETRO調べ)、その中で日本人オーナーの店は1割程度。そのため、日本食レストランがブームになっても日系のコミュニティにはお金が落ちてきません。
以前私がニュージャージー州に住んでいたとき、会社の近くにある中華レストランが隣の建物を買って日本食レストランを開いたのですが、そこの煮込みうどんはアスパラガスが入っている「なんちゃって日本食」でした。
その店のオーナーがこう語っていたのをよく覚えています――「ランチでビーフ・アンド・ブロッコリーだと5ドルしか払ってもらえないけど、照り焼きビーフだとアメリカ人は10ドル出すんだ」と。こういう日本食への愛のないオーナーがアメリカの日本食レストランを経営しているのです。
こういった話は本当にありふれたもので、せっかく和食がユネスコ無形文化遺産に登録されても、今のロサンゼルスの人気しゃぶしゃぶ屋さんの店内はこんな感じです。
これでいいのか「日本食」
また、日本食はヘルシーなのが売りの一つにもかかわらず、非日本人経営の日本食レストランは巻き寿司に天かすを多く盛るような創作日本食を提供するなどしていてヘルシーとはほど遠く、とても日本食と言えないものが見受けられます。
それに比べて、アメリカにある中華や韓国のレストランのほとんどはその国の人がオーナーです。特に中華に関しては中国本土などから本場のレストランがどんどん進出してきていて、正統派中華を食べることができます。
本物の日本食に限らず、日系人の影はアメリカで年々薄くなり、我々は自信を失ってきました。かつてはカリフォルニアのアジアコミュニティの中で一番活気があったのに……。そして気が付けば、企業が撤退するかのように日本へ帰国する人が増えていったのです。
こんな状況はあまりにも悲しすぎる。
だからこそ、久しぶりの明るいニュースである大谷翔平はわれわれ在米日本人、日系人の希望なのです。彼が活躍し、全米が注目することが我々にとって、アメリカで生きる活力となっているのです。
文/岩瀬昌美
大谷マーケティング 大谷翔平はなぜ世界的現象になったのか?
岩瀬 昌美
野球界と広告界、2つの世界を制覇した大谷翔平の秘密に迫る
大谷翔平のメジャーリーグでの活躍は毎日のようにニュースになり、多くの史上初記録を生み出しています。
*以下、本書目次より抜粋
まえがき ロサンゼルス在住マーケターから見た大谷翔平
第1章 誰が大谷翔平に熱狂しているのか
第2章 大谷はエンゼルスに何をもたらしたのか
第3章 エンゼル・スタジアムを彩った広告たち
第4章 ドジャース移籍で大谷のバリューはどれだけ上がった?
第5章 大谷翔平広告の批判
第6章 大谷翔平から見るアメリカ経済
第7章 大谷翔平をマーケティングで活かす方法
あとがき