あの頃、日本中の野球少年たちがPL学園の“KKコンビ”に憧れた。

先日、本連載で元木大介氏のインタビューに行った時の話だ。
元木さんは1971年12月大阪生まれ。つまり年齢的には清原和博と桑田真澄は、地元大阪の4学年上の先輩ということになる。

ちなみに甲子園での本塁打記録は1位清原13本、2位で桑田と元木が6本で並ぶが、本人に聞くと「1位だったら実感もあると思うけど2位だし。1位の清原さんが半端ない本数だからね」と笑い、PL学園についても「2つ上には春夏連覇した立浪和義さん(元中日)や橋本清さん(元巨人)の世代、その1学年下は宮本慎也さん(元ヤクルト)がいたからね。当時の大阪って言ったらPLだから」と強烈にその存在を意識していたと振り返る。

KKコンビの大ファンだった中村紀洋


もちろんあの男もそうだった。今回の主役、中村紀洋である。

73年大阪生まれのいてまえスラッガー。中学時代の楽しみは、テレビで大ファンのKKコンビがいたPL学園の試合を見ながらスコアブックをつけること。84年夏にはPLと取手二高の甲子園決勝戦を雨の中、現地まで観戦に行ったという。

いつの時代も野球選手には、大まかに分けて二種類のタイプがいる。小さい頃からプロ野球に憧れていたファン上がりと、自分でプレーする以外は興味がなくてプロ入りするまでほとんど選手を知らないタイプ。
中村は典型的な前者である。
なにせプロ入り後は、球場で子どもの頃から憧れていた清原のもとへ挨拶に走り、バットを貰いに行ったほどだ。

少年時代の野球狂ぶりをカミングアウト


05年に発売された著書『noriの決断』の中では、少年時代の野球狂ぶりを嬉しそうにカミングアウトしまくっている。

掛布雅之の打撃に憧れ、野球を始めた頃は左打ち。あの85年甲子園でのバース掛布岡田のバックスクリーン3連発も現地のバックネット裏から生観戦。さらに篠塚利夫(現・和典)の内野守備に憧れ、大阪・淀屋橋にあったミズノ本社が開催する「ビッグ市」(プロ野球選手の新古品野球用具が売られるイベント)に篠塚のグラブを見るために駆け付けた。

そんな純粋なる野球大好きキッズぶり。なんだか、このエピソードだけで親近感を覚え、「中村ノリさん、なんか憎めねぇ」と思ってしまうのは自分だけだろうか?

府立校から甲子園出場を果たす


15歳になった中村少年は、高校1年生から試合に出られそうと私立の強豪校ではなく地元の府立渋谷高に進学し、1年夏から「4番サード」としてレギュラー獲得。
もちろん当時の大阪高校野球は最強レベルで、89年センバツにおいて元木擁する上宮高が準優勝を飾り、90年センバツでは近大付属校が優勝、さらに中村と同学年にはのちに阪神からドラフト1位指名されるスラッガー萩原誠(大阪桐蔭)もいた。


そんな日本最激戦区で中村は2年夏の大阪大会決勝戦において、プロ注目の上宮高エース宮田正直から2打席連続の2ランホームランを放ち、府立校からの甲子園出場を果たすわけだ。

中村紀洋がイチローに送ったアドバイス


そして91年ドラフトで近鉄から4位指名を受けプロ入り。同年オリックス4位があの鈴木一朗である。
ちなみにのちの週刊ベースボール連載企画「Nori’sMIND」によると、2年目シーズンのウエスタンリーグ試合前、ノリさんはトイレで偶然一緒になった同級生イチローに向かってこんなアドバイスを送ったという。

「足を上げて打ってみたら」

 足を上げた方がタイミングが合いやすそうだし、一塁までの走り出しが早くなるよと。「振り子打法の生みの親は実は僕ですって言ったら言い過ぎですかね」なんつって、唐突に「イチロー生みの親は中村紀洋説」をぶっこむやんちゃな野球少年ぶりは、最近の大人しい選手が多い球界を思うと一種のノスタルジーすら感じさせる。

近鉄バファローズを牽引した中村紀洋


そのお騒がせなイメージとは裏腹に、プロ入り後の中村紀洋はまさに叩き上げの選手として一歩一歩着実に階段を上っていった。
ルーキーイヤーの92年にプロ初本塁打を放ち、4年目の95年には129試合に出場して初の20本塁打クリア、98年には3度目の正直で30本の壁を破り32本塁打を記録。
99年は三塁手として悲願のゴールデングラブ賞に輝き、9年目の00年には39本塁打、110打点で初の打撃タイトルとなる二冠獲得をした。

そして、01年には打率.320、46本、132点という凄まじい成績で55本塁打のタフィ・ローズとともにチームを牽引し、近鉄バファローズ最後の優勝に大きく貢献することになる。

激動の野球人生だった21世紀


だが、この後の21世紀の中村はまさに激動の野球人生だった。

翌02年は「中村紀洋というブランドを近鉄で終わらせていいのか」なんて何だかよく分からない名言を残し、ニューヨークメッツ移籍騒動。一転残留も04年にはまさかの近鉄消滅。
05年はアメリカでわずか1年プレーしたのち、契約したオリックスと揉め、07年中日との育成選手契約、09年楽天へのFA移籍、11年シーズン途中でのDeNA入団。


日米通算404本塁打、2106安打と堂々たる数字を残しながらも、色々あって退団後は「生涯現役」宣言。先日は、浜松開誠館高(静岡)野球部非常勤コーチを務めることがニュースとなった。

あらためてその実績を見ると、中村の90年代後半から00年代前半の打撃成績は凄まじい。98年からの5年間で計190本塁打、542打点の荒稼ぎ。この数字は全盛期を迎えていた同時期の松井秀喜(巨人)の計204本、514打点と比較しても遜色のない数字だ。

なお近鉄が優勝した01年オフ、中村ノリさんは能天気なド金髪姿で当時人気絶頂のタレント優香と並んで『日清食品 どん兵衛』テレビCM出演の偉業達成したことも付け加えておきたい。



(参考文献)
『noriの決断』(中村紀洋/ベースボールマガジン社)
『週刊ベースボール』(04年6月14日号)


※文中の画像はamazonよりnoriの決断―中村紀洋のフルスイング野球人生