震災の経験を昇華する「君の名は。」
(C)2016「君の名は。」製作委員会


ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。前編記事に続いて「君の名は。」について語り合います。


整合性とディティールの問題


飯田 『君の名は。』では、なんでこの相手とチェンジしたのか、なんでお互いの名前の記憶が薄れていくかの必然性が弱い。ふたりが好きになる理由もよくわからない。このあたりは新海誠らしいと思う。作劇によって、あるいはキャラクターの魅力を描いていくことによって、じゃなくて「シチュエーションしかない」のが新海脚本の特徴だからです。シチュエーションしかない、というのは『ほしのこえ』の「地球と宇宙に引き裂かれた恋人」だったら別にミカコとノボルじゃなくてもどこのカップルであっても悲しいわけです。これはドラマを書く才能でもなければキャラクターづくりのうまさでもない。
シチュエーション設定の妙です。新海さんは、そこはすごくうまい。
ただシチュエーションで泣かすのがうまい一方、普通の意味ではよくない脚本であり、設定が甘い。理屈が弱い。それは『ほしのこえ』から本作まで、まったく変わっていない。技巧的に「ちゃんとイベントを一個一個積んでいって感動させることができるようになった」ということではない。
今回は単に「救えた」「会えた」という結果だったから客は「よかった」と反応してしまっているだけなんですよ。『秒速』までは、理屈が足りていないまま、しかし突き放して終わっていたので非常に強い余韻を残したし、観る人間にそのいびつさや描かれていない部分の空白を考えさせるものになっていた。だけど歯抜けみたいなシナリオで最後までご都合だったら「おいおい」って思うでしょ。

藤田 シチュエーションの「断片」に脳が反応するだけ、というのは、東浩紀さんが「データベース消費」と2001年に『動物化するポストモダン』で呼んだものなのでしょうね。新海誠さんもそのパラダイムの人だと思うけど、今回は比較的その要素が少なくなっていたようには思いますが。
「別れ」についてですが、それがないことによる違和感は、全体の画調と関係しているんですよ。
映画全体が「追憶」という形式を採っていると、多少美化されていても、「まぁ記憶だからしょうがないな」ってなるんだけど、本作はそうじゃないですからね。出会いがあり、その後の生活がある(かもしれない)とすると、作中の語りが置かれた時間の存在の位相がよくわからないのですよ。それこそが面白さでもあるのですが、納得のいかなさにも繋がってくる。時間軸を混濁させる編集によって、記憶の混乱や忘却を描いたことと、どうも整合性が合わない。作中作の写真展の名前が「郷愁」であると書いてあるので、全体のトーンが「郷愁」であることに自覚的であるのは間違いないんですが、「郷愁」ではなくなる時間軸に入ってから、それでは合わないんですよ。
 一回、画面の作画のトーンが変わるところあったじゃないですか。
あそこ、実に痺れました。本当によかった。それで、それ以降は、ベースとなる作画のトーン、美術のトーンを、根本的に変えればよかったんじゃないだろうか、とか、思ったりしています。いっそのこと、エヴァみたいに、実写を入れちゃうとか、押井守の『アヴァロン』みたいに画面の色調を変えてしまうとか。

飯田 藤田くんが言っているようなことは僕も「ユリイカ」で書きました。ただ僕の解釈はちょっと違っていて、これまでの作品はずっと「回想している」という体か、時代設定が過去である時間軸を描いてきたので、「風景が記憶の中で美化されているもの、ゆえに現実の景色よりも美しく甘やかである」ものとして捉えることができたし、それが魅力的でもあった。
今回は三葉パートは過去ですが瀧パートの時間軸は現在または近未来なので(もちろんラストの時間軸から見たら全部「過去」「回想」「追憶」っちゃそうなんですが)、瀧パートの風景はわりと普通に見えてしまった。つまり、今までの新海作品の魅力であった、「記憶の中の風景」としての加工が弱くなっているような印象があった。

藤田 設定の話に戻しますけど、つくりが甘いのは確かですね。西暦ぐらいどっかで見るだろうとか、通信の手段はもっと色々あるだろうとか、ディティールが甘い。彗星の軌道とか、電車がおかしいとか、色々ツッコマれている。だけど、その甘さは、「ファンタジー」だから譲ってもいいかな、って思うんですよ。
だって、「運命」の話なんだから(笑) 普通、「運命の人」が近くにいたって、気づかないでしょう(笑) そこに超能力が導入されているんだから、もうそれ以上にツッコムのは野暮。
 赤い糸が全体のモチーフになっていますが(震災後に現代美術でもよく出てきた「つながり」のテーマの変奏だと思うんですが)、「運命」っていうのは、もう理由もなく決まっているものであり、付き合う相手との「運命」は存在するのだという揺ぎ無い意志を、むしろ設定がちゃんとしていないことによって感じるようになっているかなと思いました。

飯田 せめてなんで瀧くんだったのかの必然性の説明がほしいよ。女の子のほうは超自然的な力との関わりがあるからわかる。でもなんで彼が選ばれたのかがわからない。
後半でショートカットになった三葉がカチューシャつけて組紐をリボンみたいに結ぶところで「今どきハルヒかよ」って思ったんだけど、三葉がハルヒで瀧くんがキョンだという暗示だとすれば、『ハルヒ』のなかでも「なんでキョンなんだよ」っていう理由は……いや、あるな。っていうか『ハルヒ』も「3年前」の事件が今とつながっている話だけど、あっちはちゃんとハルヒとキョンが出会う理由があるわ。

藤田 理由や属性を付けてしまうと、「運命」の絶対性が落ちるから……(笑) ロマン主義っていうのは、そういうものですから(笑)
 でも、確かにそうで、男の子の側には理由がないんですよね。そこは重要なところでしょうね。身も蓋もないことを言えば、男の子は平凡で何も特別じゃないけど、特別な能力を持っている女の子と、運命の絆で結ばれているというのは、まぁ男の子が感情移入しやすい、都合のよい物語ですよね。それ自体はあまりによくある構造なので、まぁ単に男性向けのアニメにおける願望充足の要素が残存している、っていうことなんでしょう。
 ヒロインにだけ特別な能力を持たせて、地方の巫女でしょう? そこも都合が良い。なんか、国内におけるエキゾチズムを女性に振り分けたということの、欲望の仕組みに白ける人も多いと思います。特に女性が観たら、どうだろうかな。

飯田 それ言ったら新海作品では『ほしのこえ』だって『雲のむこう』だって特殊で重たい設定を負わされてるのは女の子のほうだけだったよ。
まあただ、僕にとってはこの種のツッコミ的な文句は、新海さんが持ち味や過去作で積みかさねてきた作家性を捨ててまで「普通の大作アニメ」みたいになるんだったら言わせてもらうけど、という話です。新海作品として観るなら「あなたには最初からそういう整合性は求めてないから無問題」なんだけど。

藤田 整合性で言えば、この作品のそれって、新井素子さんの作品に似ているなぁと思ったんですよ。SF的な理屈よりは、心情的なリアリティのレベルでの整合性を優先するという意味で。新井さんが震災後に刊行された『未来へ……』という作品と、この作品が結構似ているなと思って。『未来へ……』では、中年の母親が主人公で、彼女が夢の中で過去にタイムスリップしている。そして、事故で亡くしたもう一人の娘を救おうとしている。心情的なリアリティや作品構造で、ぼくはその作品を連想しました。結末に関しては、『未来へ……』の方が上手い、というか、「意表をついた結末」を出してくれた驚きがありました。ネタバレになってしまうんですが、「元気に死んでいる」っていう言葉でそれを表現されていて、それを読んだときに、グッとくるわけですよ。そういう概念的な認識って、あんまり想定したことというか、考えたことがなかったので。「別れ」もまた安易であるとして退けるとすると、本作も、そういう、想定したことのない着地点に到達して欲しかった……。

アニメーション表現の革新がなかった?


震災の経験を昇華する「君の名は。」
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飯田 物語展開以外にも言いたいことはあるんですよ。前作『言の葉の庭』は、キャラクターの輪郭線の色にまで光の照らし返し、回り込みがしてあって異様……というかアニメーション表現としてすごいなっていう驚きがあった。今回は輪郭線が普通のアニメっぽいところに戻っているじゃない。もちろん、作品内容の必然性から技法は選び取られるべきで、なんでも凝ればいいってものじゃないんだけど、技術的に後退して見えちゃうところがあるのも気になった。普通の意味でのアニメとしての作画表現はそりゃ豊かになってますよ、だってスーパーアニメーターが参加してるわけだから。でも新海作品にそういういわゆる手描きアニメーションの表現の豊かさなんて求めてないんだよ。美術やコンポジットを軸としたアニメーション表現の革新に魅せられてきたんだから。
 今回は神木隆之介や田中将貴の起用、細田守が捨て去った同ポを多用する演出をいまさら駆使するとか、元からそういう「使えるものは借り倒してでもなんでも使う」という作家だったけれども、それに加えての新海さんならではのアニメーション表現の革新、あたらしさが魅力だったんだけど、今回はそれがあんまりよくわからなかった。今までは毎回わかりやすく、観たことない表現があった。

藤田 映像のレベルでは、ぼくは前記のこと意外は、そんなに不満がないですね。

飯田 そうなんだ。音と画をシンクロさせてめっちゃ気持ちのいいカットのつなぎをしていく、というのが新海さんの特徴だけど、そうやってリズムをつくっておいて、しかし物語内容は快楽的な合体とかご都合なハッピーエンドではなくて突き放して終わるようなところが「この作家、すげえな」って思っていたのに(それを「庵野秀明からの強い影響」と言ってしまえばそれまでだけど)、音と画がテンポよく進んできれいに話が落ちたら、それは普通すぎるのでは、と思う。
 新海さんに売れてほしいなどと思ったことは僕は一度もなく、アニメ表現としても物語としても、ほかの作家がやらないことをやっている点を愛してきたので、そういう観点から、今回は点が辛いですね。「いやあ、これは売れるべくして売れたな」と思いますけど、僕はそういう要素をあなたにそれは求めてないよ、っていう。

藤田 リズムを断ち切ったりする場面は結構意図的に何度もあって、そこにハッとさせられたので、「突き放し」は部分的には残存していた。で、確かに、中盤にあるそういうシーンのほうが、グッと来ちゃうんですよね。そういう切断、突き放しが、魅力にあるのは確かでしたね。「繋がっている」はずなんだけど「切れちゃう」感じ。

飯田 まあ、文句たらたら言っていますが、これは強すぎる期待の裏返しで、『雲』のころから毎回そういう状態になってるんですよ、僕は。でも次の作品が公開されるころに観直すと「これはこれでよかった」「意味があった」「観直したらすごかった」と冷静に思えるようになる。『君の名は。』についてもそうなる気はするのですが、今のところは違和感のほうが強いですね。気に入っている人が何を喜んでいるのかも、わかっているつもりではあるのですが……。

死者を蘇らせたい気持ちを実現させてしまっていいのか


藤田 震災を間接的に主題にし、亡くなった人とのつながり、失われた土地への郷愁、哀しみなどを、映像的な詩学において描いて、観客を共感させたのは、よかったと思うんですよ。きちんと悲しむってことがようやくできるようになったっていう感じで。でもなぁ、「亡くなった人とのつながり」であるからこそよかった、「異界」も「異界」であったからこそよかったのであって、死者を復活させてしまってはダメなような気が…… さすがにそれは都合の良い妄想過ぎるだろう、そうしたい気持ちは切実にわかるが、それをやっちゃマスターベーションになっちゃうじゃんってところの一線をあからさまに越えちゃってた。これでカタルシス(精神浄化)を得てしまったら、実際の死者やまだ困難な生活をしている被災者たちのことは視界や思考から薄くなってしまう効果出ちゃわないかなって、ちょっと心配になった。

飯田 死んだ人を生き返らせて(正確には、死なないように歴史を変えて)恋愛を成就させるって異様だよね。『星を追う子ども』を見返そうよ。死者の復活を願った人間が支払った代償の大きさを、愛する人をよみがえらせようとしたモリサキの末路を描いていたでしょ、この監督は、と。

藤田 そうですね。そこに観客が躓かない、ということが、ちょっと怖い。現実はそうじゃないと分かっているけど、アニメーションと言うフィクションの中ではせめてこういう幻想を享受したい、という気持ちは、わかる。……ただ、三分の二までは傑作だと思ったのは、やはり震災を経験し、震災後を生きているぼくの胸に切々と響いてくるものがあったんですよね。『シン・ゴジラ』といい本作といい、震災から五年という時間を経たこの時期に、ちょうどそれらを題材にし、心理的に昇華させるようなエンターテイメント作品の力作、かつ、(部分的には批判するところはあれど)基本的には成功した作品が出てきたのは興味深い現象だと思います。……ようやく、五年経って、経験が消化出来てきて反映された作品を作ることができたというか、作品を作ることが「消化」のための努力であるような、そんな切実さを持ったエンターテイメントのフィクション映画が出てきて、ヒットしているということ自体は、是非があるでしょうが、今年の特徴ですね。フィクションの存在意義自体も問いかける、面白いことが起こっていますね。

新海誠という作家だからこそ期待していること


震災の経験を昇華する「君の名は。」
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飯田 ふつう、作家の成長って、ご都合主義的だったものに深みが出てきて、とかっていうときに使うけど、新海さんは逆方向で、エンタメとして都合がいいほうに、観客がとにかく喜ぶ方向に舵を切っていっている。結果、売れていっているから、商売としては良いんだろうけど……僕としてはあの、甘ったるくナルシスティックなようでいてその実すごく冷たく現実を見据えている新海誠に帰ってきてほしいですね。
 かつて村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に対して「最後は外に出るべきだった」って言っていたひとだからね、新海さんは。居心地のよい幻想世界から外に出ないとだめじゃね? って考えのはずなんだけどなあ、本質的には。

藤田 そうですね。その「冷たく現実を見据えている」要素がもっと剃刀のように鋭く観客に突きつけられたほうが、もっともっと本作は傑作になったと思います。多くの観客はそっちよりも今の方を喜ぶだろうとしても、興行収入を考えると商売的にはそれを狙わないといけないとしても、ぼく個人としては、ぼくの責任による勝手な意見ですが、絶対にそっちの方がよかった。今回は、理由は違えど、二人が同じところに不満を抱いていて、ちょっと驚きました。

飯田 『ガルパン』や『ラブライブ!』の映画版に対しては「最後は突き放して終わるべきだった」なんて言わないですよ。だけど新海誠だからね。「美術と撮影技術の革新」と「冷たい現実認識」の両立がなくなったら、新海さんじゃない作家でもよくなっちゃう気がするんです。