うそかまことか、「山田孝之の東京都北区赤羽」(テレビ東京 毎週金曜深夜0時52分~)がすこぶる面白い。
「がんじがらめのマリオネット
俺を笑う俺がいる
それを見ている俺もいる
彼にライトを当ててくれ
観客のいない盲目のダンシングボーイ」
これは番組のエンディングテーマ曲の一節で、この歌詞のように俳優・山田孝之が、主演映画で演じることに悩み、撮影を中断、自分の軸を求めて、赤羽に移住した2014年夏の出来事を描くドキュメンタリーとドラマの中間のような、モキュメンタリーと呼ばれる形式の番組だ。

現在5話まで放送され、2月13日には第6話が放送される。これまでの展開をざっとさらっておくと、
1話『山田孝之、芝居が止まる。』では、山田が映画『己斬り』で役になりきれなかったことから、赤羽で暮らそうと行動を開始するところまでが描かれた。
なぜ赤羽かというと、山田の好きな漫画『東京都北区赤羽』『ウヒョッ!東京都北区赤羽』(清野とおる著)に登場する実在の人物たちの魅力に惹かれ、そこで暮らしたいと思ったから。
第2話『山田孝之、赤羽を歩く。』では、清野と憧れの赤羽を歩き、漫画に出て来た人たちと会う。
最初はみんな歓迎モードで、山田は楽しくやっていたが、途中、出会った強面のジョージさんに、山田のやっていることを「挑戦じゃない、もとから溶け込む そういう感覚でこなきゃダメだ」とこてんぱんに批判される。
第3話『山田孝之、赤羽で暮らす。』では、2Kのアパートに住むことになった山田が、占いに行くと、赤羽方向は大凶と言われる。
第4話『山田孝之、鷹になる。』では、鷹匠の大和田さんの彼女を見つけるため、山田が合コンをセッティング、そこに実の姉ふたりを呼ぶ。家族から見た山田孝之が語られる。

第5話『山田孝之、ザ・サイコロマンになる』では、居酒屋ちからのマスターが描いたヒーロー漫画を自主映画にするに当たって、山田がサイコロマンを演じる。役を演じることで悩んでいた山田が久々に演技をすることになる。
どこまで本当でどこまで作りごとなのか? 正解がわからず、もやもやすること込みで作品の楽しさ。山田が訪ねてまわる実在の店や人物が、漫画家清野や読者山田が感動した通りに、強烈な個性があって目を逸らせないし、彼らとのやりとりが、時々、いわゆる予定調和でないのが、従来のドラマと違う面白さだ。
その最たるものは、2話で山田が怒られる場面。酔って何を言ってもからんでくるおじさんに、できるだけ低姿勢でいようとしながらも、反論したい思いが止められない山田の表情は、嘘でも本当でもひやひやして圧倒的に面白い。

しかも、そこで噴出したのは、どうせ赤羽にひやかしに来ているだけで、満足したら出て行くのだろう? という地元民が思うかもしれないことであり、これってどうせドキュメンタリーふうの作り物でしょう? という訳知りの視聴者の斜めな目線でもある。番組の前半で、そういうことも織り込み済みにしてしまうところに、作り手は上手だなあと感じる。監督は、ドキュメンタリー監督の松江哲明と、山下敦弘の連名になっている。
この作品の本気度を感じるのは、1話の山田の部屋に置かれた名ドキュメンタリーDVD各種の左端に、モキュメンタリー『容疑者、ホアキン・フェニックス』や「映像に記録できるのは、真実などといった大仰なものではなく、あくまで物事の表層的なものに過ぎず、同時にまた、ドキュメンタリーといえども結局は作り物に過ぎないという根本的な姿勢を表している。」と作品のサイトに宣言されているドキュメンタリーの「≒シリーズ」も多く並んでいること。

見ていて、心拍数が不規則に上がったり下がったりして、そわそわしてしまう感じは、この地元民とのやりとりだけでなく、山田を撮っている山下敦弘との間にもある。山下は、山田が撮影中断させた映画の監督で、山田に提案され赤羽生活をドキュメントしている。

2話で、漫画家・清野と地元の写真館で記念撮影をすることになった時、マスクをとることを拒む清野に、店の主人と山下は何度もとったほうがいいと粘るが、山田が清野を擁護する。その時の山田と山下の互いに譲らない感じは、傍から見て大丈夫かな・・・とそわそわ、ひやひやする。
また、3話、新居にやってきた山下が「クーラー効く?」と山田に訊くと、「まあ、大丈夫ですけど。(窓)開けてると効かないですけど」と山下が開けっ放しにしたベランダの窓を閉めに席を立つ。はっと気づいて山下は「ごめんごめん」。この微妙な気まずさにひやひや。

山田くん、役になりきれないなんて悩んでしまうくらいだから、純粋かつやや意固地なのだろう。赤羽に住むために、RED WINGの靴を履いたり、自分でデザインした赤羽マークをGUCCIのTシャツに刺繍したり、ユニークな人のようでもある。
そんな彼に対して、山下は作家としての矜持ももちつつ、言いすぎないようにしようと感情の出し引きしている感じが垣間見える。
このふたりの関係性が若干ぎくしゃくしているのでは? と気になるのは、そもそも山田が中断した映画の監督が山下だから。
山下は、このドキュメンタリーにつきあいながら、山田が俳優として軸をみつけて芝居に戻ることを期待していて、何度かそのことに触れるが、その話になると山田は明言を避け、そのたびふたりの間の空気が軋む。演技だったらすごすぎる。

5話は、ついに山田が久々に演技をすることで何か発見するのでは? と期待感を煽った。
商業作品だとできないような、いろいろ意見を出し合うことができて、楽しかったと明るく言う山田に、「これでお芝居にいけそうな感じ?」と山下が訊くが、「いやそういうあれじゃなくて・・・」とはぐらかす。演技だったらすごすぎる。
山田が俳優に戻るのは、2014年の秋以降仕事しているのでわかりきったことなのだが、この番組で、どういうきっかけで吹っ切れて、赤羽を出て行くかが楽しみ。
既に山田は、「(今まで)相手の気持ちを考えてなかったんじゃないか」「(考えてるつもりで)決めつけていたんじゃないか」「その人の本質を見てないんじゃないか」ということに気づき始めている。
『山田孝之の東京都北区赤羽』は、山田孝之の、傍から見たら(笑)がついてしまいそうな自分探しの葛藤を通して、ドラマのこれからのあり方も問われているような作品だ。
ポストドラマのひとつとして、起っていることを客観的に捉えるメタドラマの手法は、同局、同枠で山田を主役にした「勇者ヨシヒコと魔王の城」(11年)の脚本、監督の福田雄一が得意とするもので、近年、ドラマで多く見られるようになり、フジテレビ「ファーストクラス」(14年、脚本 渡辺千穂〈第1期〉、及川博則〈第2期〉)の登場人物の裏の声が、表の声と等価で描かれるものまで登場し、飽和状態の今、『山田孝之の東京都北区赤羽』のようなモキュメンタリーには可能性を感じる。
なにしろ、こんな台詞、なかなかない。
「ニトリを中心に考えていけばいいんじゃない」
「今日のまとめとしてはニトリを中心に考えるってことでちょっと今日はいったん」
「そうですね便利ですしね」
「このタイミングでお連れして正解でしたね。住み続けたら大変なことになってますもんね」
これは3話で占ってもらって大凶となり、どうしたらいいかを占ってもらった後の会話。
さらに、その時、占い師・赤羽の母は、「方角って嘘つかない」「人間は嘘つくけど方角は」と言い出し、「(占いで)嘘も方便だからたまにはつく」と言いだす。
期せずしてなのか狙いなのか「嘘」の真理が語られているのだ。参った。

こんなふうに、ドミュメンタリーふうではあるが、いろいろ用意周到な作品で、山田が赤羽にもってきた数少ない書籍やDVDの中で、「ゆきゆきて、神軍」の隣に「仏教とアドラー心理学―自我から覚りへ」が置いてある。
アドラーの言葉に「自ら変わりたいと思い努力すれば、ライフスタイルを変えることは十分に可能だ。性格は死ぬ1〜2日前まで変えられる。」(アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる 100の言葉 より)なんてのもあるが、自分の軸を見つけるためにはこういう本に頼らなくなるのが先決なのでは? と誰もがツッコんだに違いない。きっとこれも、山田くんの、俺を笑ってくれ、という狙いなのだろう。(木俣冬)