同番組でメインパーソナリティを務めるタレント・永六輔は今年82歳。
ラジオとのかかわりは中学時代から
永六輔は1933年、東京・浅草の最尊寺の住職の次男として生まれた。永がラジオに携わるようになったのは、中学2年生だった1947年にまでさかのぼる。敗戦後の連合軍占領下にあったこの時代、日本にはまだ民間放送はなく、ラジオはNHKだけだった。
永少年は、政治などへの風刺をふんだんに盛りこんだ番組「日曜娯楽版」に憧れ、自身も時事コントを投稿するようになる。投稿はかなりの確率で採用され、そのうちに原稿料で学校の月謝が払えるぐらいになったころ、NHKからスタッフが足りないからコントを書かないかと声がかかった。
永の初めてのラジオ出演も「日曜娯楽版」だった。同番組には「冗談スリラー」というコーナーがあり、そのオープニングでは毎回、レギュラー出演者の丹下キヨ子が「ギャーッ」と叫ぶ演出だった。やがて丹下は番組を降板、このとき代役に指名されたのが永だった。
「日曜娯楽版」の制作の中心人物だった作詞・作曲家の三木鶏郎は、1951年以降、民放が各地で開局するとCMソングを多数手がけるようになる。
ちなみに冗談工房の設立当初、経理担当の専務として永の書いた台本を管理し、放送局とギャラの交渉などをしていたのが、のちの作家・野坂昭如である。2人の付き合いは長く、野坂が病気で表舞台に出てこなくなってからも、「土曜ワイドラジオTOKYO」では「野坂昭如さんからの手紙」と題して、毎週野坂が自ら近況をつづった文章が朗読されてきた。
「ニューギニアで死んだ」というウソ番組が大騒ぎに
ラジオパーソナリティにとって、台本に頼らないフリートークは必須のものとなっている。このフリートークをラジオで始めたのも永だった。
1958年にラジオ関東(現・ラジオ日本)が開局し、女性パーソナリティの番組を永と前田武彦が交互に書くことになったものの、その台本が間に合わない。だったら書く内容をしゃべってしまえばいいと、永も前田も自らレギュラー出演するようになった。これが「昨日のつづき」という番組で、永はのちに大橋巨泉にバトンタッチしている。
60年代後半に深夜放送が若者のあいだでブームになっていたころ、永もTBSラジオの「パックインミュージック」でパーソナリティを務めた。そこで彼は、2時間の放送中に日本国憲法の全文を朗読して話題を呼んだほか、こんな騒動も起こしている。
それは永が旅先のニューギニアから帰国が遅れ、番組に出られなくなったときのこと。
電波の届くところへ旅して40余年
1970年、TBSラジオで永をパーソナリティとして「土曜ワイドラジオTOKYO」が始まる。この枠は75年以降、三國一朗、久米宏などによって引き継がれ、91年にはまた永が再登板した。
永がラジオに出る土曜以外は原則として日本各地を旅してまわるようになったのもこのころからだ。これは、民俗学者の宮本常一から言われた「放送の仕事をするなら、電波の届いているところに行って、その先で考えて、スタジオに帰ってきて話をしなさい」との教えに従ったものだった。
永は「土曜ワイドラジオ」のほか、1967年からやはりTBSラジオで始まった「誰かとどこかで」で旅先でのできごとを報告し、また1970年開始の日本テレビの旅番組「遠くへ行きたい」も当初は永が毎週出演し、各地でロケをしていた。
このほか、永は旅先などで聞いた市井の人たちの言葉をメモして、それを分類するようになる。これは雑誌「話の特集」で「無名人語録」として連載されたほか、さらにベストセラーとなった『大往生』などの著作のもととなった。
今回、永の著作をまとめて読んでみて、彼の姿勢が思いのほかジャーナリスティックだということに気づいた。市井の人々の言葉をまとめた一連の著作は、アメリカのジャーナリスト、スタッズ・ターケルの『仕事!』などのインタビュー集とかなり通じるところがあるように思う(ターケルにも、ラジオで番組構成をしたり出演したりしていた時期があるという)。
また、『坂本九ものがたり 六・八・九の九』は、永が作曲家・中村八大と組み「上を向いて歩こう」などの楽曲を提供した歌手・坂本九の生涯をたどったものだが、単なる回想に終わることなく、遺族に取材するなどして書かれたまぎれもないノンフィクションである。
喧嘩早い「ゴテ六」から「ラジオの精霊」へ
「上を向いて歩こう」は、永が繰り返し語っているように、60年安保での挫折から作詞したものだという。このとき永は、日本テレビのバラエティ番組「光子の窓」の台本を書かずに安保反対のデモに参加し、番組のディレクターだった井原高忠に「デモと番組とどっちが大切なんだ」と問い詰められた。これに永は平然としながら「デモですね」と答え、けっきょく番組を降板している。この例にかぎらず、放送の仕事の9割以上は途中で喧嘩して降板し、テレビ界では「ゴテ六」と呼ばれていたと本人は書く(『昭和~僕の芸能私史~』)。
テレビにはある時期から、一部の番組を除き意図的に出演を控えるようになった。それでもラジオは80歳を超えたいまも永の根城だ。かつてのように流暢にしゃべることはできなくなったとはいえ、もはやスタジオにいさえすればいい、永はそんな存在になっている。TBS出身のアナウンサーの小島慶子は永を「ラジオの精霊」と名づけたが、いまの彼の立場はたしかにそう呼ぶにふさわしい。
(近藤正高)