岡山で備中高松城の戦いにあった秀吉は、なぜ即座に京に向かうことができたのか。歴史評論家の香原斗志さんは「中国大返しのウラには、いつでも敵の毛利軍と和議が結べる段階まで秘密裏に交渉を進めていた武将の功績がある」という――。

■あまりにもタイミングが良すぎる「中国大返し」
織田信長(小栗旬)から備中(岡山県西部)攻略を命じられた羽柴秀吉(池松壮亮)は、毛利方の領土との境界にある備中高松城(岡山市北区)を攻めていた。湿地に囲まれた城を落とすために秀吉が選んだ作戦は水攻めだった。周囲に堤防を築き、そこに川の水を引き込んで、城を水没させるという策である。
ちょうど梅雨時だったため、城はたちまち湖上に浮いたような状況になり、秀吉は勝利を確信した。だが、ちょうどそのとき、天正10年(1582)6月2日早朝、わずかな供回りしか連れずに京都の本能寺に宿泊していた信長は、明智光秀(要潤)配下の軍勢に囲まれ、燃え盛る本能寺で腹を切って果てた。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第27回「本能寺の変」(7月12日放送)。
第28回「急げ!秀吉」(7月19日放送)では、その翌日、備中にいる秀吉のもとに急報が届けられる。秀吉は信長の死を受け入れず、どこかで生きているはずだと信じて、毛利方との和議を急いで取りまとめ、全軍にこう命じる。「これより上様をお救いするために京へ向かう。ただひたすらに走って、走って、走り続けよ!」。
秀吉が信長の訃報を信じなかったというのはフィクションだが(すぐには信じなかった可能性も否定はできないが)、急遽、和議を結び、京都に向かって出発したことはまちがいない。しかも、城主の清水宗治を切腹させ、城は落城させている。
なぜ、タイミングよく和議を結ぶことができたのか。
■地味だが重要な役割を果たした武将
この備中高松城攻めにも、和睦交渉にも、大きく関わっていたのが、「豊臣兄弟!」では高橋努が演じている蜂須賀小六正勝だった。どう関わったのか、時系列でみていきたい。
秀吉が出陣したのは天正10年(1582)3月のことで、蜂須賀正勝はまず、城攻めを開始する前に、毛利水軍の調略を試みている。当時、水軍力では織田より毛利のほうが優れていたため、その力を削ごうとしたのだ。毛利輝元の叔父で後見人だった小早川隆景の重臣で、船手の総帥だった乃美宗勝と盛勝父子に働きかけたことが、書状に記されている。
正勝はもともと、尾張(愛知県西部)と美濃(岐阜県南部)の国境を流れる木曽川流域で、水運や流通を支配した土豪の集団「川並衆」の頭目だったので、とりわけ水運がからむ案件では、勘が働いたようだ。
また、秀吉の使者として黒田官兵衛孝高とともに、高松城主の清水宗治のもとに赴き、備中と備後(広島県東部)の2カ国をあたえるので、織田方に寝返るように交渉している。だが、宗治は毛利家に忠誠を尽くし、誘いを断っている。
■実は「高松城水攻め」の考案者
4月15日、秀吉はみずから率いる2万に、宇喜多氏が率いる1万を加えた総勢3万の軍勢で、高松城の周囲に陣取った。だが、高松城は東、北、西の三方を山に囲まれ、南側には沼地が広がる天然の要害で、騎馬や鉄砲隊が近づくのは容易ではない。
そこで、兵の消耗を防ぐために、高松城が湿地に囲まれているのを逆手にとり、南面に堤防を築いて足守川の水を引き込み、水没させる作戦に打って出る。

この作戦を献策したのは、『黒田家譜』などの記述から、これまで黒田官兵衛だといわれてきたが、一次史料では確認できない。近年は、水攻めの発想は、やはり川並衆ならではのものだという見方が多い(牛田義文『史伝 蜂須賀小六正勝』清文堂出版、など)。実際、工事の責任者である築堤奉行は正勝が務めており、地形を読んで適切に堤防を築くのは、かつての川並衆の技術があればこそ、だったのではないだろうか。
さて、水攻めはすなわち兵糧攻めである。物資の補給が断たれ、城内まで浸水は進み、当然ながら城兵の士気は低下する。これに対し、毛利方も救援に向かったが、なにもできなかった。これには正勝による毛利水軍の調略が効いていた。毛利氏は制海権を失って、海からの進軍や物資の補給ができず、水に浮かんだ高松城に物資を届ける舟さえない状況だったようだ。
■本能寺の変までにほぼ交渉を終えていた
この状況で、さらには6月4日には信長みずからの出陣が予定されていた。だから毛利方は、早期から和睦の交渉に応じたのである。
毛利方は安国寺恵瓊を派遣し、備中、備後、美作(岡山県北東部)、伯耆(鳥取県中西部)、出雲(島根県東部)の5カ国割譲と、城兵の生命の保全、という条件を提示。これに対して秀吉は、5カ国の割譲のほかに、城主である清水宗治の切腹を要求した(『小早川家文書』など)。

まさに水攻めが行われている最中に、安国寺恵瓊や小早川隆景らと、ギリギリの交渉を重ねたのが黒田官兵衛と蜂須賀正勝だった。この時点で秀吉麾下の武将として正勝が上位に位置しており、したがって交渉は正勝が主導し、官兵衛が補佐したものと思われる。
秀吉が本能寺の変について知ったのは、翌6月4日未明だったとされる。だが、その後も毛利方には信長が落命したという事実は知らせず、5カ国の割譲と清水宗治の切腹という条件を譲ることなく、急いで交渉をまとめ上げた。
それが可能になったのは、事前に正勝が、みずから考案したと思われる水攻めで、高松城を窮地に追い込んだうえで、いつでも和議が結べる段階まで、秘密裏に交渉を進めていたからだった。正勝は清水宗治の切腹にも立ち会っている。しかも、信長の落命という機密事項を毛利方に知られる前に、秀吉の軍勢が立ち退けるように、伝令を片っ端から監禁するなど、神経を使っている。
■柴田勝家に先を越された可能性
だから、秀吉の軍勢が撤退したのち、毛利方の軍勢が秀吉の軍勢を追撃することもなかった。毛利方もまもなく信長の落命を知り、秀吉を追撃するべきだという声が上がったが、小早川隆景は「誓紙の血痕がいまだ乾かざるにこれを破るは武士の恥」といって、追撃させなかった。和睦を結んだばかりですぐ破るのは武士の恥だからすべきでない、というのだ。
だが、正勝による交渉が進んでおらず、和睦を結べずに京都へと引き返していたらどうだっただろうか。あるいは、事前に交渉が進んでいなければ、秀吉はしばらく備中高松城から動けなかった可能性もある。

その意味で蜂須賀正勝は、秀吉の天下獲りの影の功労者であり、彼の交渉力がなければ、秀吉は天下を獲っていなかったかもしれない。
たとえば柴田勝家は、信長の落命を知ったのは6月6日で、そのとき上杉景勝攻略のために越中(富山県)にいた。本拠地の北庄城(福井県福井市)に戻るだけでも200キロ前後の距離で、北庄から京都までさらに百数十キロあった。だから、光秀を討つつもりも秀吉に先を越されたのだが、正勝の交渉がなければ、あるいは勝家に先を越された可能性も否定できない。
■明治維新まで阿波を統治
蜂須賀正勝は荒くれものの野武士のイメージが強いが、実際にはこのように、冷静で冷徹な判断力を備えた戦国きっての交渉人だった。
本能寺の変の時点で数え57歳で、その後も賤ヶ岳合戦に参戦し、大坂築城の普請に加わるなど活躍を続け、天正13年(1585)3月、秀吉が内大臣になった際に、朝廷から従四位下の官位を得ている。四国攻めにも出征したが、論功行賞による阿波(徳島県)一国、17万3000石は、嫡男の家政にあたえられ、自身は大坂で秀吉の側近として仕えることを希望した。
その翌年、すなわち天正14年(1586)5月22日、大坂の自邸で死去。しかし、家政にはじまる徳島藩主としての蜂須賀家は、秀吉の死後も、関ヶ原合戦後もそのまま続いた。江戸時代には淡路(兵庫県の淡路島と沼島)も治め、25万石の領主として一度も転封されることも、改易されることもなく、明治維新まで存続した。
これだけ長く安定した統治は例外的だが、それもこれも備中高松城攻めでの功労があったからこそ、といえるだろう。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。
早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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