■織田家臣団のナンバー2ではない
大河ドラマ「豊臣兄弟!」で池田鉄洋が演じ、いい味を出している丹羽長秀は、織田家臣団のナンバー2としばしば誤認される。
なぜかといえば、元亀4(1573)年頃に木下藤吉郎秀吉が“柴”田勝家、丹“羽”長秀にあやかって「羽柴」筑前守(ちくぜんのかみ)秀吉と名乗ったからだ。この逸話で、柴田勝家と丹羽長秀が織田家臣団の双璧を成す実力者だという誤解が生まれた。
たしかに、柴田勝家は天正3(1575)年に越前ほぼ一国を任され、いわゆる方面軍司令官として、織田軍の北陸支配を担った重臣である。しかし、丹羽長秀の方はというと、信長の在世中には方面軍司令官に任ぜられることなく、四国方面軍の副官、若狭一国を支配にとどまった。柴田勝家が北陸に置かれた後、石山本願寺攻めを任されたのは、佐久間信盛である。秀吉が羽柴を名乗る頃、織田軍のナンバー2は佐久間信盛だったと見るべきだろう。
■秀吉の姓はなぜ丹羽+柴田なのか
ではなぜ、秀吉は佐久間の名を取って「佐柴」や「間柴」と名乗らなかったのだろうか。それは柴田と佐久間は同類だったが、丹羽は毛色が違ったからだろう。
織田信長の家系は、祖父・信貞以前から勝幡(しょはた)に城を構え、父・信秀が那古野(なごや)城に移り、信長を那古野城に残して、さらに信秀が古渡(ふるわたり)城・末盛(すえもり)城に移った。従って、織田家臣団の中核を成す尾張衆は、父祖伝来の譜代である「勝幡譜代」、信長が育てた「那古野譜代」、後に信長の傘下に編入された「古渡・末盛譜代」などから成り立っていた(地名+譜代という分類は筆者が勝手に考案したもの)。
柴田勝家・佐久間信盛を代表とする「古渡・末盛譜代」は、動員能力の高い国人領主が多かった。
■丹羽長秀の微妙な立ち位置
イメージしやすく例えるなら……株式会社織田建設の会議室。協力会社の佐久間組は従業員300名の地域でも有数の土木会社。その親類筋の柴田組はそこまで多くはないが、そこそこの従業員を抱えている。一方、丹羽設計事務所は従業員数名だが、技術に優れているので、なるべく多くのプロジェクトに噛ませたいし、もっとチャンスを与えたい。ただ、人を使ったことがないので、現場を任せるには不安が多い。その点、木下土建は兄弟2人しかいない名ばかり企業だが、とにかく労務管理がうまく、用地買収も丸く収めてしまう。当然、会議では佐久間・柴田の声が大きい。丹羽・木下は地道に成績を上げて、やっと会議に参加できるレベル……といったところか。
織田家臣団の二大派閥である「古渡・末盛譜代」と「那古野譜代」。
■なぜ那古野譜代ばかりが改姓したのか
意外に忘れられているが、秀吉が羽柴を名乗った後、長秀は惟住(これすみ)姓に改姓させられている。天正3(1575)年7月、信長は「主立った家臣を任官させることを願い出、勅許を受ける」。研究者の谷口克広氏によれば、その時のメンバーは、松井友閑、武井夕庵、明智光秀、簗田(やなだ)広正、丹羽長秀、村井貞勝、塙直政、羽柴秀吉だという(『信長軍の司令官』)。
この8人を苗字、官途のいずれを与えられたかで分類すると、明智光秀、簗田広正、丹羽長秀、塙直政の4人が苗字を与えられており、うち3人までが「那古野譜代」の旗本選抜組なのである。
ではなぜ、当時、織田家臣団の事実上のナンバーワン、2だった柴田勝家、佐久間信盛は新たな苗字を賜る栄誉に浴しなかったのか。それは、おそらく柴田や佐久間という苗字が、地元尾張でネームバリューのあるブランドだったからではないか。
換言するなら、丹羽、簗田、塙は、かれらの地元でもたいした家系でなかったから、改姓しても支障がないと信長は判断したのだろう。そのように考えると、明智光秀も名門の出身ではない可能性が高い。
■安土城の普請奉行として活躍
ここで改めて、丹羽長秀の略歴について述べておこう。丹羽五郎左衛門長秀(1535~1585)は、尾張国春日井郡児玉村(名古屋市西区児玉町)に生まれ、信長の近臣として15歳から仕えた。永禄8(1565)年頃の犬山城攻略で重臣・和田新介、中島豊後守の調略に成功。
元亀元(1570)年以降、木下藤吉郎秀吉とともに近江浅井家攻めを担った。佐和山(さわやま)城を囲んで、翌元亀2年の城主・磯野員昌の投降に功あり、そのまま佐和山城主に登用される。
浅井・朝倉滅亡後は若狭(福井県南西部)支配を任され、天正3(1575)年信長から、惟住に改姓するように命じられる。信長上洛後は畿内の行政にも携わり、天正4(1576)年に安土城築城がはじめられると、その普請奉行を命ぜられている。
天正10(1582)年5月に織田信孝(信長三男)の四国遠征に附けられるが、翌6月の本能寺の変で遠征軍が崩壊。秀吉の軍勢とともに山崎の合戦で明智光秀を破った。清須会議で秀吉を支持し、若狭の他に近江高島・志賀(滋賀県湖西部)の二郡を得た。
翌天正11年の賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦では、当初から一貫して秀吉方を支持し、琵琶湖の制海権を握って後方支援や前線で活躍した。そして、越前(福井県東部)と加賀能美・江沼の二郡を得て、計123万石を領した。
■柴田勝家より秀吉と仲良し?
2013年に公開された映画『清須会議』(三谷幸喜脚本・監督)では、柴田勝家と丹羽長秀は常時語(かた)らう仲であり、秀吉と対立する構図が描かれていた。
しかし、経歴を見る限り、長秀は柴田・佐久間より秀吉に近く、秀吉より柴田と仲が良かったとも思えない。
■妻は信長の姪で“養女”
長秀の正室は信長の養女で、信長の庶兄・織田三郎五郎信広の娘である。婚姻は永禄6(1563)年だという。
信長の養女と長秀の婚礼は織田家中にとって極めて異例な事態だった。系図によれば、信長の姉妹は織田一族や尾張国内の有力国人などと結婚する例が多く、家臣と結婚したのは信長の死後にお市の方が柴田勝家に再縁したこと、『寛政重修諸家譜』によれば、神保未亡人が稲葉貞通に再縁したくらいしかいない。永禄12年に信長の娘が蒲生氏郷と結婚したといわれるが、それまで信長の近親が家臣と結婚する事例はなく、長秀は家中でも一目置かれたことだろう。
■長秀の子も信長の養女と結婚
丹羽長秀は織田家の婚姻以外、妹が蜂屋頼隆に再縁したくらいで、有力部将クラスとの婚姻がない。織田家臣団の閨閥から浮いた存在である。これは長秀の出自がかなり低く、小領主クラスにも相手にされなかったからだと考えられる。
そこで、信長は養女との婚姻で長秀に箔を付け、部将として抜擢したのだろう。
■嫡男・長重の没落と御家再興
長秀の嫡男・丹羽加賀守長重は信長の五女と結婚し、二重の婚姻関係を結んでいる。いかに長秀が信長から気に入られていたかを示すものだろう。ちなみに、信長の娘と長重の婚姻は、生前の信長が天正8(1580)年に指示し、本能寺の変後の天正10(1582)年7月に羽柴秀吉の介添えによって輿入れされたという。
長秀は晩年に越前と加賀能美・江沼の二郡123万石を領したが、嫡男・長重が13歳で跡を継ぐと、秀吉にいろいろと難癖をつけられ、最終的には加賀小松12万石に減らされてしまった。さらに、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦で、長重は北陸の地で前田利長と合戦に及ぶも私闘とみなされ、領地を没収されてしまう。
領地を失った長重であったが、苦境を救ってくれる友人がいた。二代将軍・徳川秀忠である。秀忠は家康に何度も訴えて長重を常陸古渡(ふっと)1万石に復帰させた。その後、長重は大坂夏の陣で武功を挙げて3万石に加増され、秀忠の時代になると何だかんだで陸奥白河藩10万700石に加増されている。持つべきものは友人である。
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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『財閥と閨閥 10大財閥の婚姻戦略』『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『一目で流れがわかる業界変遷100年史』(KADOKAWA)など。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)

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