世界各地で「中国スパイ」の摘発が相次いでいる。政治学者で、群馬県立女子大学非常勤講師の伊藤隆太さんは「最初は簡単な仕事を依頼し、報酬を払いながら信頼関係を築き、やがて職務上の知識や非公開情報へ踏み込んでくる。
中国の情報機関によるこうした勧誘は海外の事例で明らかになっており、日本の企業人や研究者も標的になり得る」という――。
■次々と摘発される“世界の中国スパイ”
スパイ事件の入り口は、大使館や軍事施設の奥から、求人サイト、大学の共同研究、海外コンサル契約、衛星通信の周辺へ広がった。
各地で、中国に関わるとされるスパイ、技術窃取、研究者勧誘、通信傍受の摘発や捜査が相次いでいる。もはや情報機関だけの話ではなく、企業の採用担当者や大学研究者、技術者の受信箱にまで届く問題になった。
米国、英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの情報機関は、求人サイトを使った勧誘手口を名指しで警告した。ドイツでは大学研究者を中国側につなぐ工作疑惑が表面化し、フランスでは衛星通信を狙ったとされる事件が正式捜査の対象になった。個別の事件をつなげば、人材、技術、通信というビジネスの日常が、情報戦の入り口に変わっているとわかる。
2026年6月3日付のワシントン・ポストの記事は、機密情報共有枠組みであるファイブアイズが、中国軍情報機関によるオンライン人材勧誘に共同警告を出したと報じた。記事は、職業SNSや求人サイトをめぐる脅威について、ファイブアイズがそろって公的警告を出すのは初めてだという当局者の説明も伝えている。
■ダミー会社を使って機密保持者を狙う
逮捕、捜査、警告、ドメインの差し押さえが切れ目なく表面化し、各国の防諜機関が同じ脅威を名指しするようになった。ではなぜ、習近平政権が国力強化のために広げた情報網は、世界各地で露見するようになったのか。
それは中国のスパイ活動が「秘密の世界」から、人材市場、大学、コンサル契約、通信インフラという日常へ染み出したからだ。
勧誘の舞台が、冷戦映画のような密会から、誰もが使う求人サイトやSNSへと移行している。
2026年6月3日付で公表された英国保安局(MI5)の共同警告「Safeguarding Our Secrets」では、中国の軍情報機関がオンライン採用担当者やコンサルタントを装い、中国国外の企業に見せかけたダミー会社を通じて、機密情報や内部限定の情報に触れる人物を狙うと説明している。
2026年6月5日付で公表されたカナダ安全情報局(CSIS)の同警告では、対象として安全保障上の資格保有者、防衛・外交・情報分野の専門家、インド太平洋地域に関わる軍関係者、政府情報に間接的に触れる研究者、ジャーナリスト、シンクタンク職員などが列挙された。
■“求人サイト”で「スパイ勧誘」が行われる
LinkedInやIndeedなどで最初の接触を持ち、まず公開情報のレポートを書かせて信頼を築き、やがて非公開情報の提供へ誘導する流れも示されている。
この構図は、会社員にも大学の研究者にも見覚えがあるだろう。副業、顧問、講演、調査レポート、海外コンサル。なかには高い報酬や給与を謳っているものもある。入り口はどれも合法に見える。相手方は最終的な依頼主を明かさず、「公開情報をまとめるだけ」と持ちかけ、少しずつ職務上の知識や人脈へ踏み込んでくる。スパイの勧誘は、転職、副業、キャリアアップの顔をして現れるのだ。
各国当局が警告を公表するのも、もはや水面下の摘発だけでは事態を抑えきれない段階に入ったからだ。手口を公にすれば、標的になりうる人々自身が違和感に気づき、企業や大学も内部研修や通報窓口を整えやすくなる。
公表は外交上の抗議であり、防諜のコストを社会全体に分散する作戦でもある。
米司法省(DOJ)と米国連邦捜査局(FBI)も、同じ手口を実際に摘発している。2026年6月10日付で発表された米司法省の資料によれば、当局は米政府や軍の現旧職員らを狙った13のインターネットドメインを差し押さえた。偽のコンサル会社サイトは求人広告や人工知能(AI)生成画像を使い、守秘義務のある情報を引き出そうとしていたという。
■「民間向け講演」にスパイの影
研究交流は、情報収集が最も自然に紛れ込める入り口の一つである。2026年5月20日付で公表されたドイツ連邦検察庁(GBA)の発表によれば、ミュンヘンで拘束されたドイツ国籍の夫婦は、中国の情報機関のために軍事利用可能な技術情報を得ようとした疑いがある。
2026年5月20日に配信されたロイターの記事によれば、夫婦は航空宇宙工学、コンピューター科学、人工知能(AI)の教授らと接触していた。一部の研究者は民間向け講演のつもりで中国へ招かれたが、実際には国有防衛企業の関係者が同席していた疑いがあるという。
問題は、研究者本人がどう考えていようと、軍民両用の技術は民間の成果が軍事能力に直結してしまうことだ。人工知能(AI)は無人機、画像識別、指揮統制に使われ、航空宇宙はミサイル、衛星、偵察、輸送能力と重なる。研究室の成果発表が、相手国の防衛産業にとっては入手困難な実用ノウハウそのものになりうる。
中国はこの接続を「軍民融合」として制度化してきた。
民間企業、大学、国有企業、軍需企業の境界を薄くし、商業技術を軍事近代化へ取り込む発想である。西側から見れば、普通の共同研究や招聘が、相手国の防衛能力を底上げする技術移転になりかねない。ミュンヘンの事件は、その疑念を強めた。
■民泊に建てられた“直径2メートルのアンテナ”
情報戦の標的は、人間から通信インフラへ広がっている。
2026年2月5日に配信されたロイターの記事によれば、フランス当局は、中国人2人を含む4人を逮捕し、捜査判事のもとに送った。パリ検察当局は、中国人2人がスターリンクの衛星ネットワークや軍を含む重要機関のデータを取得し、中国へ送ろうとした疑いを調べているという。
現場はフランス南西部ジロンド県の民泊物件だった。住民が直径約2メートルのパラボラアンテナに気づき、周辺でインターネット障害が起きたことが端緒になったと報じられている。捜索では、衛星データ取得に使われたとみられるアンテナやコンピューターシステムが押収された。
スターリンクは、ウクライナ戦争で軍事通信や災害時通信の価値を世界に示した。低軌道衛星通信は、地上インフラが破壊されてもデータを届ける。だからこそ、通信の傍受、妨害、解析は、戦場だけでなく平時の情報戦でも意味を持つ。
フランスの事件は、情報工作が人間の勧誘から宇宙インフラの周辺まで広がったことを示している。
中国側は一連の疑惑を否定している。2026年6月4日付で公表された在カナダ中国大使館の回答では、ファイブアイズの警告について「中国スパイ脅威」は完全な捏造で悪意ある中傷だと反発した。フランス事件についても、中国外務省は中国人の正当な権益保護を求めたとロイターは伝えている。
■中国市民には「協力する義務」が求められる
この流れの背後にあるのが、習近平体制下での「国家安全」重視である。
中国国家安全部(MSS)は、軍とは別系統の文民情報・防諜機関として知られるが、公開情報は限られる。2025年9月1日に公開された米CBSニュース「60 Minutes」の記事では、元米外交官ジム・ルイス氏の見方として、MSSは世界最大級で、最も活発なスパイ機関になったと紹介された。
本来、MSS、人民解放軍の情報部門、公安機関、国有企業、大学ネットワークは、それぞれ別の組織である。ファイブアイズの警告が名指ししたのは中国軍情報機関であり、海外警察拠点の問題は公安系の話である。それでも西側が警戒するのは、これらが中国共産党の国家安全戦略のもとで、技術、人材、データ、海外華人社会をめぐって連動して動いているように映るからだ。
2025年7月14日に更新されたカナダ安全情報局(CSIS)の中国国家情報法に関する分析では、中国の市民には国家情報・安全機関に協力する義務があると説明されている。中国側から見れば合法的な国家安全制度だが、海外の企業や大学から見れば、民間の個人・企業と国家機関との境界線が見えにくくなる。

■海外拠点は「53カ国・102カ所」に広がる
「50カ国・100拠点」という数字も、この不信を象徴している。
2024年8月7日に更新されたカナダ公安省の議会向け資料では、スペインのNGO「Safeguard Defenders」の報告として、中国の海外警察拠点が30カ国54カ所、追跡報告では53カ国102カ所とされたことを紹介している。
これはMSSのスパイ拠点数そのものではない。だが公安、軍情報、国家安全、国有企業は組織としては別系統でも、海外から見れば「中国の国家機関が国境を越えて動いている」という一つの警戒感として受け止められる。
中国がこうした情報網を広げる理由は、技術覇権、軍事近代化、対米競争、体制の安定にある。米国連邦捜査局(FBI)の「The China Threat」ページでは、中国政府と中国共産党に由来する防諜・経済スパイ活動を、米国の経済的繁栄と民主的価値への重大な脅威と位置づけている。同時に、脅威の対象は中国人や中国系の人々ではなく、あくまで権威主義政府の政策とプログラムだとも明記している。
この区別は重要だ。西側当局が警戒しているのは「中国人だから」ではない。国家機関、軍関連組織、国有企業、研究ネットワークが、民間交流や人材市場を通じて情報収集につながる構造そのものを警戒している。だからこそ、標的は政府職員だけにとどまらない。AI研究者、航空宇宙技術者、半導体エンジニア、量子や素材の専門家、通信インフラに触れる事業者まで、標的の範囲は広がっている。

■日本の企業や大学も標的にされている
2025年10月16日付で公表された英国保安局(MI5)長官ケン・マッカラム氏の脅威評価では、国家的脅威に関与しているとして調査対象となる個人が過去1年で35%増えたとされた。
この評価では、議会、大学、重要インフラに対するスパイ活動も脅威領域として名指しされた。国外のスパイ事件は、実際には大学の共同研究室、企業の採用部門、退職者の顧問契約、通信設備の調達にまでつながる問題である。
これは日本企業にとっても他人事ではない。海外求人サイトやビジネスSNSで届く高額の調査依頼、元官僚や元自衛隊員への講演依頼、研究者への海外招聘、スタートアップへの投資、海外子会社のデータ管理。いずれも通常のビジネスに見える。
だが、相手の実質的な依頼主、情報の最終用途、軍事転用の可能性を確認しなければ、秘密保持契約だけでは守れないノウハウが外へ出る。退職者の肩書きや研究者の人的ネットワークは、機密文書そのものよりも見えにくく、流出すると取り戻せない。
■「信用できない国」という共通認識
中国にとって本当の痛手は、摘発が一件ごとの失敗で終わらない点にある。
事件が公表され、議会やメディアで議論されるたびに、中国との関係そのものに疑念が入り込む。研究者の招聘は警戒され、留学生や中国企業への視線は厳しくなり、大学や企業は共同研究の審査を強める。その結果、善意の研究者や留学生まで不当な疑いの目で見られ、人的交流の土台が細っていく。これは、中国が本来頼るべき民間交流まで細らせる損失である。
ファイブアイズが共同警告を出した意味もここにある。一国だけの警告なら、二国間の政治摩擦で片付けられる余地もある。しかし、米国、英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの防諜機関が同じ文書で手口を説明すれば、それは同盟圏全体のリスク評価になる。企業や大学は「中国案件」を個別の商談として扱うだけで済まなくなり、経済安全保障の審査対象として見るようになる。
中国側から見れば、研究、企業、人材を通じた情報収集は合理的な国家戦略かもしれない。米国も英国も情報機関を持ち、同盟国もサイバーや人的情報の収集を行っている。そもそもスパイ活動は、多くの国家が行っている現実でもある。だが、いま中国が直面しているのは、活動の規模と手口が可視化されすぎたことによる信用コストである。
■強力なスパイ網が「外交の弱点」を生む
皮肉にも、強い情報機関が外交の弱点を生む局面がある。相手国が「中国と関わると、どこかで情報機関につながるかもしれない」と感じ始めれば、中国企業の買収、大学との連携、研究者の招聘、留学生交流まで摩擦が増える。軍事的な秘密を得るための網が、経済交流と科学技術協力の入り口を狭めるのである。
この不信は、機密を扱う人だけにとどまらない。大学が中国企業との共同研究を審査するとき、研究テーマだけでなく、資金の出どころ、共同研究先の株主、国有軍需企業との取引、研究成果の移転先まで確認することになる。企業も同じだ。人材紹介会社から届いた候補者、海外の顧問契約、技術助言の依頼が、どこで国家安全機関や軍需産業につながっているのかを見なければならない。
習近平政権が情報網を広げた理由は理解できる。米中対立が長期化し、半導体、AI、宇宙、通信、海洋、金融データまでが国家競争の対象になった。中国は、自国の技術不足を埋め、軍を近代化し、体制の安定を守るため、国内外の情報収集能力を強めた。
■情報を集めて、信用を失った
しかし、工作が広がるほど、相手国の防諜機関は学習する。求人サイトの偽企業、講演依頼、コンサル契約、暗号化アプリ、仮想通貨払い、民泊物件のアンテナ。手口が具体的に公表されれば、次の標的は警戒し、企業は研修を行い、大学は審査を厳しくする。摘発は一件の失敗を超え、工作網全体の手口を世界にさらす逆宣伝になる。
日本企業と大学も、この変化の内側にいる。半導体や素材、通信、航空宇宙、防衛関連スタートアップ、大学のAI研究は、経済安全保障の現場である。採用、共同研究、投資、講演、顧問契約を「人のつながり」とだけ見る時代は終わった。相手が誰で、何のために、どの情報を欲しがっているのかを確認する防諜意識が企業経営の基礎になった。
中国スパイの摘発を遠い国のスパイ映画として眺めれば、足元の入り口を見落とす。研究者の受信箱、転職サイト、大学の交流窓口、企業の海外事業部に、静かに入り込むリスクである。習近平政権が築いた巨大な情報網の大誤算は、個別のスパイが捕まることそのものではない。
技術を得るために広げた網が、中国と関わるだけで警戒される空気を生み、国家にとって最も回復しにくい資産である信用を、自ら削り始めたことにある。

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伊藤 隆太(いとう・りゅうた)

政治学者

DiploSight / NovaPillar Advisory LLC, Strategic Consultant.博士(法学)。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同大学大学院法学研究科後期博士課程修了。慶應義塾大学・広島大学助教、日本国際問題研究所研究員等を経て今に至る。Co-Chairs of the IPSA Research Committees (RC12)、APSA Committee of Best International Security Article等を歴任。単著論文はInternational Affairs誌に‘Hybrid Balancing as Classical Realist Statecraft’ (2022)、‘Hubris Balancing’ (2023)、International Relations誌に‘A Neoclassical Realist Model of Overconfidence and the Japan–Soviet Neutrality Pact in 1941’ (2023)、‘Outrage Balancing’ (2026)、単著研究書は『進化政治学と国際政治理論』(芙蓉書房出版、2020)、『進化政治学と戦争』(芙蓉書房出版、2021)、『進化政治学と平和』(芙蓉書房出版、2022)、編著研究書に『インド太平洋をめぐる国際関係』(芙蓉書房出版、2024)等がある。

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(政治学者 伊藤 隆太)
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