未経験な分野に挑戦するには、何が必要か。『東大卒、年収1100万をやめて刺しゅうをはじめたワケ 冷めたまま働きつづける前に』(世界文化社)を出した刺繍作家の田中優輝さんは「成功する事業に共通するのは『正しい構造』があること。
たとえ未経験でも、その世界のしくみの構造がわかれば、勝ち筋が見えてくる」という――。
■25万円の家庭用ミシンが初めの一歩
現在のミシンは、一台130万円の工業用の刺しゅうミシンです。下絵の線を1ミリの誤差もなくなぞり、糸の色を何層も重ねて濃淡を作る。私の頼もしい相棒です。
でも最初は、25万円の普通の家庭用ミシンでした。この時点で、資本金はすでに半分近く消えていて、残り100万。その4分の1をはたいて買ったこの重くて、白い相棒のことを、私は一生忘れません。
段ボールは、小型冷蔵庫ほどに大きくて、とにかく重い。いずれ世界的なブランドを目指す第一歩として、記念に開封動画を撮りました。
私にはなじみのない、ロボットアームのようなミシンのボディは意外にも触り心地よく、すぐに夢中になりました。スタートボタンを押して動きだした瞬間から、ミシンの前から立てなくなりました。針が、布の上を走る。
目の前で糸が細かく層を重ねていきながら、形作るのを座ったまま見ていました。気づいたら1時間が経っていました。
それまで計算の世界にいた人間が、ものを作る機械の前で、布の上に図柄が生まれるのを、ただ座って見ている。その1時間は、外銀にいた9カ月の中で、1秒たりとも起きなかった時間でした。その日から、一日18時間、起きている時間はすべてミシンの前に座る日々が続きました。
■「ポテチ」で説明できる世界のしくみ
刺しゅうを選んだとして、問題が一つありました。
私は刺しゅうもミシンも、一度も触ったことがありません。技術がゼロです。では、なぜって思われるでしょう。でも怖くなかったのは、インターン時代に叩き込まれた「世界のしくみの構造を知る」という考え方があったからです。
たとえば、湾曲したポテチが売れた理由を知っていますか。
まっすぐなポテチが主流だった市場に、湾曲した形が出てきました。
曲がっているポテチは、口に入れたとき舌に接する面積が増える。だから、より美味しさを感じる。つまり、構造が正しければ、あとは届ければうまくいく。これが私が考える成功する事業に共通する構造です。
刺しゅう市場も同じ目で構造を考えました。かわいい動物、きれいな花、どれもいい。でも、どれも商品を並べて終わっていました。その背景やストーリーがない。そこが、私にとっての「湾曲したポテチ」です。
勝ち筋は見えていました。あとは、腕を磨くだけです。
まずはネットに転がっている刺しゅうの文献を日本語から英語まで片っぱしから頭に叩き込みました。
次に1作めより2作め、2作めより3作めと改善して直す。構造がわかれば、あとは何度も手を動かすしかありません。手を動かしさえすれば、みんな同じ位置まで来られます。だから、未経験でも怖くはなかったのです。
■完璧じゃないけど「かわいい…」
起きている時間をすべてミシンに使う毎日が続きました。YouTubeで糸の通し方を調べ、手を動かし、失敗したらほどいてまたやる。
1週間で直線が縫えました。2週間で、ミシンにあらかじめ入っていたロケットの図案が刺せました。2、3センチの、小さなロケット。できあがりを見て、私は思いました。「かわいい……」。
線はゆがんで形も少し頼りない。
それでも、自分の手が作ったものを見てそう思ったのは、初めてでした。我が子同然、という感覚でした。それは、初めて育てた観葉植物に名前をつけたくなる感覚に近いかもしれません。
完璧じゃない。でも、自分の手が時間をかけたものには、少しだけ命が宿る。
その感覚を、私は外銀時代に一度も持ったことがありませんでした。ゼロから何かを生み出す。その瞬間にしか生まれない感情があります。計算が当たったときの快感とも、数字が合ったときの達成感とも、まったく種類が違う。手元から来る、静かで確かな感情です。
■答えを探す方法は「やってみること」
もし今、自分でなくてもいい仕事をしていると感じているなら、一度だけ試してみてほしいことがあります。
何でもいい。
小さくていい。自分の手だけで、何かを最後まで作りきってみる。その瞬間に生まれる感情が、次に選ぶ仕事の手がかりになるはずです。
直線が縫えるようになると、次の壁が見えました。技術と、商品の間には、まだ大きな距離がありました。自分が「かわいい」と思えるものを作れるようになるには、どのくらいかかるのか。見当もつきませんでした。
答えを探す方法は一つ。やってみること。
お金がいつ尽きるかわからないまま、1日18時間、起きている時間はすべてミシンの練習に充てたのです。
色が重い。線が固い。
犬の目が笑っていない。才能というより、見えるものが増えていく感覚でした。最初は、何が違うのかすら見えません。でも40作も作ると、ピントの合っていない写真が、少しずつ鮮明になっていくみたいに、「違和感」が見えてきます。
■うまくいかないことが教えてくれること
40作めで、やっと手本に近くなりましたが、それでも、まだまだお客様には出せる代物ではありません。
ただ、1作目と40作目は完成度に違いが出てきます。その差は才能の差ではなく、直した回数の差です。
何度も直した人が、少しずつ近づいていく。それが実感できたとき、私はまだ1円にもならない、この仕事を続けられると思いました。
「自分にはどんな才能があるのかもわからない」と感じているなら、視点を変えてみてください。才能がないのではなく、手本との差分をまだ見ていないだけかもしれません。
うまくいかないことは、やめる理由ではなく、次に直す場所を教えてくれているだけです。

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田中 優輝(たなか・ゆうき)

刺繍作家

1999年秋田県生まれ。東京大学経済学部金融学科卒業後、外資系投資銀行に入社するも約9カ月で退職。2024年、株式会社TakeRiskを創業。「北区の刺しゅう屋」を立ち上げる。刺しゅうもアパレルも未経験のまま、家賃7万円の四畳半とミシン1台から製作を開始。世界的なブランドに育つまでの挑戦と過程をSNSで発信し続けている。現在、Instagramのフォロワーは約17万人。

「北区の刺しゅう屋」HP


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(刺繍作家 田中 優輝)
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